5月号原稿を書き終えました

ちょっと変てこりんの文章ですが、考えていること、取り組もうとしていることについて書きました。


SNSのツィッターを介しての聖書黙想の集い

教会の交わりにおけるネットワークの回復と構築を願って

教会員の高齢化と5G回線時代という観点から、教会の交わりのためにSNSを活用できないだろうかという提案をさせていただいています。具体的にはツィッターを介しての聖書黙想の集いです。まだ試行錯誤中ですが、今回はそのことについて少しくご紹介させていただきます。

これには2つの特徴があります。一つは①インターネットを用いること、そして、もう一つは②聖書を読んで会話を交わしつつ聖書に聞くということです。

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4月14日の週報4面です

資料館とハニ・ウォルス姉妹のこと
先週の水曜日の午後、十字の園の評議員会に出席し、その後で、かつてのディアコニッセ母の家を改修整備して資料館にしようとしているというので見学させていただきました。20数年前、その裏手にあった牧師館に住んでいたので懐かしいことでした。
1950年代後半のこと、長谷川保の招請に応えてドイツからディアコニッセ7名が来日して、自然治癒療法を確立しつつあった聖隷の結核療養所(現在は聖隷病院)で、最も重要な看護と介護の働きを強力に援助するためにお働きになりました。そのリーダーがハニ姉妹です。彼女は困窮するご老人方のために老人ホームが必要であると考えて、長谷川保に訴え、聖隷の土地を一部割譲してもらって老人ホームを始めました。それが十字の園です。そして、それは特別養護老人ホームの先駆けとなり、モデルでもありました。今日の高齢者福祉の始まりに、ドイツの教会を背景としたドイツ人ディアコニッセ(プロテスタントの修道女)の献身的な働きがありました。
資料館はその時代の記憶をとどめ、ディアコニッセの方々と十字の園の初期の働きを記念するために準備されています。
昨日知ったのですが、ハニ姉妹愛用の口語訳聖書が見つかったようです。姉妹の書き込みのある創世記第1章、旧約聖書1頁を写真で見ましたが、赤線が入っていたり、ドイツ語で何やら書き込まれているのですが、大変興味深く、ハニ姉妹の心を捉えていた語句や言い回しを知ることができます。思いがけないところに関心が向けられていて、改めて、創世記1章を読み直すこととなりました。

今年度の目標は

1、BMonTwitterを軌道にのせたい、というのが大きな目標です。Twitterを介して行う教会の集い・交わりで、教会に集うことが難しい方々もご参加していただけます。主イエス・キリストに招かれた者たちの「聖書を囲む会話」を喜びあいたいと願っています。

2、体力の向上をはかりたいと思っています。病気で倒れて2年が経とうとしています。退院して1年半です。少しづつ向上してきましたが、まだまだです。焦る気持ちを抑えて、しかし、着実に前に進んでいきたいと願っています。

3、ネットやSNSの発信力を高めたい。1と関係があるのですが、情報発信力の強化です。身体の動きがままならないので、たいしたことはできませんが、今まで取り組んできたことを土台にして発展させたいと思っています。

さてどうなりますやら。

聖書黙想の楽しさ

先週の分区教会交流会の前半は共同聖書黙想でした。聖書箇所はルカによる福音書23章39ー43節が取り上げられ、①進行役の石井牧師によるガイダンス、②個人黙想、③分団での分かち合い、という流れで行われました。

あらためて思わされたのは、一緒にバイブルリーディングに取り組む、聖書を囲む会話の楽しさでした。そこに何が書かれているのか、分かって解らない(解って分からない、かな?)のが聖書ですが、読んで感じたことを紹介しあいながら聖書テキストの不思議さ、あるいは、味わい深さに気づかされていきました。

私の心に最終的に残ったのは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」というイエス様のお言葉です。語りかけられているのはイエス様の隣で十字架に磔になっている犯罪人です。その現実を離れてこの人の今日はないのに、イエス様は「わたしと一緒に楽園にいる。」と仰って、磔刑場と楽園を結んでおられるわけです。この明確な結びつきに気づかされ、イエス様の不思議なお言葉にわたしの心は、謂わば磔られて、離れなくなったのでした。

共同聖書黙想の楽しさ

 

ヤコブ書による受難節(明日の週報4面です)

1章5節で「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」と新しい小段落がこのように語り初められています。知恵とは「処世術に通じる賢さ」ではありません。生きぬく賢さ、術ではありすが、神の救いの御心に結ばれて知る賢さ、知恵のことです。

わたしたちは、わたしたちにとって何が救いなのか良く分からないのではないでしょうか。悲しみや喜び、愛や憎しみ、正しいと思うことや悪いと思うこと、いろいろなことが織り合わされ、編み込まれている世の中に身を置いて、何が救いであるのか良く分からないでいます。
聖書は、しかし、神様が独り子イエス・キリストをとおして救いの御心をあらわしてくださったと告げて、その御心に結ばれて知る知恵、賢さを備えてくださったと教えています。

ヤコブ書は 、その知恵を「惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に」願い求めなさいと語っています。

「惜しみなく」と訳されている元の語は、調べてみると「編む」という意味の語から組み立てられていることがわかります。その語は新約聖書に3回だけ用いられており、マタイ27章29節、マルコ15章17節、ヨハネ19章 2節です。いずれも「(いばらで冠が)編まれた」ことを伝え、惜しみなく与えてくださる神とは、いばらで編まれた冠を冠とされた独り子イエス・キリストの十字架において救いをこの世の中に織り込み、まことの知恵をお与えくださるお方であることを記念しています。

躓かず、疑わず、怒らない。ヤコブ書にも関連して。

先週の聖書箇所にも、今週の箇所にも「躓く」あるいは「躓かない」という言葉が出てきました。
この言葉は、よく耳にするスキャンダルという英語の語源にあたるギリシャ語で、動詞はスカンダリゾー、名詞はスカンダロンです。「腹をたてる」というのが元々の意味です。
道を歩いていて、思いがけないところに石ころがあって、それに気づかずにつまずきます。すると誰がこんなところに石を置いたのか、と言って腹を立てます。小さな子どもであれば怒ってその石を投げ捨てることでしょう。そして、その石が誰かにあたってしまう。するとその人も、腹を立てて怒り出します。その怒りをどこにぶつけるというのででしょうか。闇雲に、周囲に怒りをぶつける。そんなことを時々目にします。時々というよりも、昨今の社会の姿になってしまっている、そんな感じがしないでもありません。そうでなければ幸いです。
自戒を込めて申しますが、自分は他の人に躓きを与えているに違いないのに、テレビのワイドショーで、他の人のちょっとしたスキャンダルでも見聞きすると、腹を立てて怒りを抑えられないそんなことがあります。そして、時には、その鬱憤をはらさずにはおれないとばかりに声高に物申すというありさまです。ヤコブ書1章6節に「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。」とあります。疑うとは神に躓いて自分の思うようにいかないと腹を立てているということだと思います。そのような人は風に吹かれて揺れ動く海の波に似ているというのです。元の言葉は海が膨れ上がる、打ちつける、荒れ狂うという語です。疑う人はそのようだというのです。面白い表現だなあと思いました。
今日は「躓かない」という説教題です。主のお言葉に聞きましょう。

第3回原稿下書きです/私の仕事はボゥ〜としていること

私の仕事はボゥ〜としていること

『ボゥ〜と生きてるんじゃねえよ!』と誰かに怒鳴られそうですが、牧師が仕事をしている時は周の人からはボゥ〜としているように見える、そんな時が案外多いのではないでしょうか。
結婚してまもない頃、まだ20代後半でしたが、同じ町のずっと先輩の牧師先生が私たち夫婦に「牧師がボゥ〜としている時は仕事をしているのだから『あなたー、ボゥ〜としてないで、何々してちょうだーい!』などと言って邪魔をしてはいけませんよ」と仰ってくださいました。「聖書の言葉を思いめぐらし、教会のことや社会のあれやこれやのことについて考え、また祈りつつ説教の準備をしていたりしているのだから。」と。確かに読書することを含めて私もそのような時を過ごします。そして、集中すると時間が経つのを忘れてしまうこともあります。その時、周囲の人からはボゥ〜としているように見えるのではないでしょうか。
余談ですが、あの牧師先生の言葉を聞いた時、根っからボゥ〜っと生きている私は「我が意を得たり」という思いになりました。しかし、もしも、その先生が私のことをよくご存知であればきっと違った表現で仰ってくださったことでありましょう(笑)。良いか悪いか分かりませんが、有難いことにその時以來、ボゥ〜としていてもめったに邪魔されることはありません。ところが、ところが、その時間をこともあろうに、自分が放棄してしまう。そこに留まり続けることが必ずしもできるわけではないのです。いたずらに多くのことに思い悩み、心を乱しており、何かを急いで処理しなければならないと駆り立てられる。ルカ福音書10章に出てくる姉マルタが顔を出します。そして、牧師の肝心な仕事にたどり着かないのです。そうです。私たちはマルタの時間に慣れ親しみすぎているのです。

私は一昨年病気をして以後、ボゥ〜とする時間がさらに増えました。まだ若いつもりでいましたが、高齢者の仲間に入れていただいたということもあるのでしょう。しかし、それは特権でもあります。何かを処理するための時間とは違う時間が与えられているからです。
聖書の言葉に聞き、聖書が開かれるのを待つことができる時間です。主イエスの足下に座って、聞きいっていた妹マリアの時間と言えば良いでしょうか。それはいつ終わるかわかりません。きっと神さまがみ言葉を我が内に開いてくださる。その時それは閉じられることでありましょう。

二つの時間を生きるために

私たちにはマルタの時間が与えられているだけではありません。マリアの時間も与えられています。二つが編みこまれているのではないでしょうか。
これも余談ですが、私が最近ボゥ〜としている時に側にあるのはタブレットです。商品名を出して申し訳ありませんがApple社製ののiPadです。長時間同じ姿勢でいることが難しいので、どこにいても側に置いておけて、迅速に起動し、仕事の多くをまかなうことが出来るので重宝しています。教会HPの更新はもちろん、インターネットを使って種々な連絡にあたったり、時にはネット会議にも出席します。文章や説教原稿を書くこともできます。この原稿はgoogleドキュメントを開き、液晶キーボードや、音声入力を用いて書き込んでいます。
最近の楽しみの一つはiPadを使っての聖書の味読です。旧約聖書と新約聖書を原語で読むことができる無料の聖書アプリがあります。簡易で気の利いたヘブル語とギリシャ語の辞書が付いています。それを使ってヤコブの手紙を味読しています。味読と言っても語句をゆったりと眺めて観察するだけのことです。ヤコブの手紙はそのような味読に適しているように思われます。観察経過はメモ代わりにTwitterに投稿します。誰かに読んでもらうためではありません。読まれても良いのですが、あくまでも自分のためのメモです。その時はiPadの画面半分には聖書アプリが、別の半分にはTwitterが動いているので、聖書アプリを眺めながらTwitterにメモを書き込んで投稿します。そして、区切の良いところで立ち止まり、一区切りのまとめの文章を書いて自分のブログに載せるようにしています。それを楽しんでくださっているかどうかは分かりませんが、教会の方々が覗いてくださっています。遅々たる歩みですが、味読に取組んでみるといろいろな発見があり、思い巡らしに誘われます。楽しいものです(もちろん、時には苦しいこともあります)。一例ですが1章5節に「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。」とあります。「惜しみなく」と訳されているのはαπλωςです。その語の根にはπλεκω(編む)を観察することができます。「編む」と訳されるπλέκωは新約聖書に3回だけ、マタイ27章29節、マルコ15章17節、ヨハネ19章2節に用いられており、いずれも荊で冠が「編まれた」ことを伝えています。十字架上の主イエスを仰ぎつつ「惜しみなくとがめだてしないで」という言葉を思い巡らすことになりました。ついでに、もう一つご紹介します。この手紙は「離散している十二部族の人たちに」(1章1節)宛てられていますが、この言い回しは著者の教会についての自己理解と受けとめて良いように思われます。その語を観察すると興味深いことに種まきと発芽と成長のイメージが浮かび上がってきます。「離散」はディアスポラです。それはσπείρω(スペイロー/種を蒔く、散らす)という語から組み立てられています。また「十二部族」の「族」はφύω(発芽する、発育する)に由来する語です。ですから遠くに散らされて点在し、何やら試練にも遭遇している教会ですが、神の民としてみ言葉の種が蒔かれて発芽し、成長している。ヤコブの手紙はそのプロセスに着目し、それをεργον(働く)こととして表現し受けとめているように思われます。私たちがまず働くのではありません。働きに与り、試練の中にあってその下に留まり続けて(忍耐して)その働きの成就を待ちます。
このように語句の詮索をタブレットで楽しみつつ、ボゥ〜としている次第です。それは大事なそして楽しい私の仕事となっています。

マリアの時間を共有しましょう

さて、前回記したことですが、Twitterを介しての聖書黙想のことです。タブレットでもスマホでも良いのですが、どなたかネット上に(ブログやHPに)テキストを表示してくださって、Twitter経由でそれを読むことができ,,更に牧師がこれもTwitter経由でテキストについての必要最小限の情報や関連する教理的事柄についての解説を提供してくださり、黙想(聖書を囲む会話)の進行役を担当してくだされば、参加者は忙しい生活の中にあっても、教会の兄弟姉妹と共にボゥ〜とする幸いを分かちあうことができます。そして、それは聖書が開かれるのを待つ新たな時間の始まりとなりましょう。

少し技術的なことになりますが、説明を加えさせていただきます。今申しましたTwitterを介しての聖書黙想では、Twitterが会話の場(集会場)となり、ブログ記事や画像や動画を組み合わせて用いることによって、それらがいわば集会の中で補助的に用いられる黒板やプロジェクターのような役割を果たすことになります。もちろん、すでにネット上に存在する素材を用いることもできます。大げさな言い方になりますが、広大なインターネット世界の中に、聖書を囲む会話の場が生まれ、そのためのネットワークがささやかであっても編みこまれることになります。それは聖書の言葉を囲む喜ばしい交わりです。

「超高齢化と5G回線時代の教会」と題してまとまりのない話を3回続けて書かせていただきました。IT(インフォメーション・テクノロジー)の加速度的な発達とそれに伴う社会の変化に私たちは取り残されそうですが、好むと好まざるとに関わらず、私たちの身近な現実となっています。そして忘れてならないことは、ITはマルタの時間のためにだけ存在しているわけではないということです。ITはコミュニケーションのためのツールであって、マルタ専用ではありません。もしもそうであれば、ITの更なる発達は人間の非人間化を促進し、人間を機械のごとくに取り込むだけとなりましょう。繰り返しますが、私たちは二つの時間を生きています。マリアの時間のためにITを用いたいというのが私の提案です。使い始めると、きっとさらに良い用い方がわかってくるに違いありません。そして、それは教会員の高齢化が進む教会の交わりのあり方を見直す良い機会を提供してくれているようにも思われます。

兄弟を得る

水曜日の聖書黙想と祈る会ではこのところマタイ福音書18章と19章を取り上げてきました。Twitter上での模擬共同黙想でも同じところが取り上げられて、ゆったりとお付き合いができるので、テキストに編まれての会話が佳境に入っています。

事細かにご紹介できませんが、おおよそ下記のような展開になっています。

18章15節に「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」とあり、赦しをめぐって19章に至るまで譬え話も含めてイエス様のお言葉が続いています。18節には「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」ともあり、天上(神の国)との関連で私たちの身近な人間関係に目が向けられます。近いが故に経験する人間関係の難しさが「頑固」(19章18節)という語で浮き彫りにされて、聖書を読みながら恥ずかしい思いになるのですが、「恵まれている」との主のお言葉と18章の譬えで示唆される神さまの大きな赦しに思いが向けられて、地上の歩みが神の国を待ちつつ歩む旅路とされていることに気づかされます。

「兄弟を得る」とは主にあって結ばれる新たな関係、大きな赦しのもとに共に立つ友情と友人を得るということでありましょう。古い友との関係においても、頑固がぶつかり合う夫婦関係においても、それを得ることになると主は仰ってくださっているのだと思います。

19章のはじめは離婚について取り上げられているのですが、たとい離婚することがあっても兄弟を得るために、ということでありましょう。

 

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