ナグネ宣教師への一つの応答

14、15日の二日間、日本キリスト教団派遣宣教師で韓国長老会神学大学校で教鞭をとっておられるナグネ(洛雲海)准教授を迎えて有意義な時を過ごすことができました。

ohn神学のことも話を聞くことができました。韓国のキリスト教事情を背景に生起した神学ムーブメントです。それは私たち日本基督教団の閉塞状況を克服するという観点からも有意義なムーブメントではないだろうかというのがナグネ宣教師のお考えでした。

詳しくここではご紹介できませんが、キリスト教界が一つの樹木であるとすれば、根を深く広くはり、枝を大きく広くのばして、生き生きと堂々とした大樹であるように、そのために神学が役割を果たし牽引しようとする神学ムーブメントのようです。

ohnとは韓国語で完全なとか、全体的・総体的なとか、丸く欠けのないと言った意味のようです。キリスト教界が神学的に、あるいは宣教論と実践において、ややもすると分裂し、それぞれに偏りを生じさせており、その多様性が必ずしも豊かであるとは言えず、硬直し枯渇しかねないという危惧があるわけですが、そうではなくてohnを目指して神学的な実のある対話、議論を喚起していこうということのようです。

大変なエネルギーを必要とすると思いますが、精力的に取り組もうとしています。現状は、その対話と議論の場、土俵作りですね、その段階のようです。なんだ、と思わないでください。土俵作りの議論も神学的に大変な作業だと思いますし、そこからすでにohn神学ムーブメントの重要な議論が始まっているとも言えましょう。

期待したいと思います。私は概ね賛同します。

 

10月14日(日)週報の4面です

日本基督教団総会(23ー25日)に向けて
ある日本の哲学者が朝日新聞のコラムに「民主主義の内在的欠陥ー同等の観念ー」という一文を寄せていました。「民主主義という政治体制は人はみな平等であるという原則の上に成り立っている。これは人類が勝ち取った誇るべき原則である。誰もが平等に尊重されねばならないという価値観もここから導き出される。」そう記して、
「だが民主主義における平等にはもう一つ別の側面がある。平等に与えられた権利にふさわしくあるよう、自らの言葉や考えを鍛え上げることが期待されるという側面である。」と述べています。
ハンナ・アレントを引用して、古代ギリシアの民主政を参照しながら平等と同等を区別し、後者の重要性を強調しておられるます。そして、「民主主義は民衆に、政治参加の権利を行使するにふさわしい水準の者どもと同等の存在になろうとすることを求める。だから民主主義社会では、教育による人物の涵養(かんよう)や報道による情報提供などの必要性を誰も否定しない。」と綴っておられます。もちろん、誰に対しても同等の水準を強要するというようなことがあってはなりません。人はそれぞれ違った賜物を与えられているからです。「しかし、それがことさらに求められる一群の人々がいる。それは政治家でである」と。
この同等の水準という要件がどのようにしたならば出来得る限り実現し、保たれるかを考えることは大切なことでありましょう。10日後に日本キリスト教団総会を控えていますが、教会政治においても同様で大事な指摘だと思いました。

台風24号による影響のこと

浜松では珍しいことですが今回は台風による影響を受けました。30日(日)夜、まさに暴風が吹き荒れました。またその影響で静岡県のみならず、東海地方広域にわたる停電が起き、4日現在、だいぶ復旧したとはいえ、完全復旧には至っていないようです。

下記に記しましたが、袋井教会の被害とその後の修繕のことが気になります。お祈りくださるとともに、お支えいただきたく存じます。

台風24号で被害を受けられた方々、そして諸教会、諸施設の皆様にお見舞い申し上げます。私どもの教会では礼拝堂のスレート瓦が何枚か飛び散ったのと、牧師館裏庭に大きな飛来物がありました。トタン屋根のようです。その付随物が牧師館の屋根などにぶつか…

浜松元城教会さんの投稿 2018年10月3日水曜日

「サタン、引き下がれ。」とペトロに

「サタン、引き下がれ。」と主はペトロに向かって言われました。マタイによる福音書16章23節です。先週の聖書黙想と祈りの会で読んだ箇所です。
サタンという語はアラム語の一方言に由来するそうです。告訴人、非難する者というのが素朴な意味で、悪魔あるいは神に敵対して人間を誘惑する者と説明されます。主イエスは父なる神のご意思であることを受け止めて、ご自身の受けるべき苦難と十字架のことついて、そしてご復活についてお話しになった時、ペトロは主イエスをわきにお連れして、いさめ始めたのでした。主イエスの前に立ちはだかり、その歩もうとされる方向を変えようとしたのでした。そのペトロを主は「サタン」と呼び、「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたのでした。
「引き下がれ」とは文字通りには「わたしの後ろにいなさい」です。そこは弟子の正位置です。主に伴わせていただくために、主イエスは私たちにも「引き下がれ」「わたしの後ろにいなさい」と仰ってくださいます。その言葉を幾たび聞かせていただいたことでしょうか。そしてこれからも繰り返し聞かせていただくことでありましょう。

敬老祝賀愛餐会によせて

父の口から出た言葉をふと思い出すことがあります。先週の金曜日の朝には「いつかはいくらでも休むことができる時が来る。」を思い出しました。
これは「休みもとらずに、なぜそんなに働き続けるのですか。」と尋ねた私への返事です。父は自分の仕事も人生も天職と受け取っていました。天職とは神様のcallingによってということです。父は人生の残酷さ、無常、儚さをもちろん味わい知っていました。先の言葉はその延長ともとれますが、そうではなくて「休む」には「安息」の意が込められていたと感じます。天職の先に安息が待っている。仕事を退いた後も天職としての人生がある。安息へと向かう人生を辿っているという自覚です。
水曜日に聖書黙想と祈りの会で読んだ箇所に、「わたしはあなたに天の国の鍵を与えよう。」と主がペトロに向かってお語りになった言葉が記されていました。天国の鍵とは神さまのご支配へと開く鍵です。神さまが御子を通して与えてくださった罪の赦しの恵みを喜び、分かつ務めを指しています。教会は罪の赦しを告げ、この地上のすべての人の歩みが安息へと向かうものとなるようにと祈ります。教会に招かれて、私たちの歩みも天職callingとされています。そうなのです。はい。

リニューアル

9月からの黙想と祈りの会
13日の聖書黙想と祈りの会はマタイによる福音書16章13〜20節を取り上げ、今月から少しやり方を変えることにしました。今まではその日の聖書箇所をその日で閉じて、翌週は違う箇所を選ぶようにしていましたが、黙想を深めるために、1箇所を二週かけて扱うことにしました。ですから20日も同じ箇所を取り上げます。
ついでに「黙想」の定義ですが次のように言い換えます。「聖書を囲む会話」「聖書との対話」です。聖書を開いて自分が自分自身と対話することもありましょう。また水曜日の会のように何人かの人と一緒に聖書を囲んで会話を交わすこともあります。二つは別々ではなく、普通は同時に行われます。御言葉である主イエスのもとに招かれて聖書の言葉を囲んで会話する、それが水曜日の黙想だと受け止めてください。
先週、週報4面に高齢化の進む教会は主から、また、社会からチャレンジを受けていると書きました。私たちは歳を重ねる苦労、その辛さも幸いも信仰によって味わうことがゆるされており、その味わいを証しする言葉を紡いでいきたいと申しました。それは決して大そうなことではなく、普段の「聖書を囲む会話」の積み重ね、つまり聖書の言葉とともに歳を重ねる日々の中から生まれてくるのだと思います。
20日は、「あなたはわたしを誰と言うか」という主の問いかけを感じる時、また、主を証しする難しさを語り合い、ペトロが与えられたという天国の鍵のことについて話し合います。アンデルセンやグリム童話にある鍵をめぐるお話も紹介されます。私は。「心の鍵屋さん」というごく最近作られた小さな物語を紹介するつもりです。お時間を作ってご参加ください。

高齢化と教会

4ー6日、ベテルホームにショートステイでお世話になりました。そこでしかお会いできない方々とお話できるのは嬉しいことです。今回は食事の折に、向かいの席にお座りの91歳のお爺様とお話することができました。耳が少し遠いのですがきちっとしたお話ができる方でした。ハッとさせられたのですがその方は昭和2年のお生まれでした。昭和生まれの方が90歳を超える時代になったのだと、改めて気付かされたのでした。
今日、高齢人口の割合が高くなっていますが、教会はさらにその割合が高く、今年から9月の敬老祝賀会は、今までとは違って、高齢会員に新たになられる方を老いも若きもお祝いするということになりました。
さて、教会の高齢化を憂う向きもあります。けれども、私は高齢化が進む教会はチャレンジを受けていると受け止めるべきだと、最近、思うようになりました。どういうことかと申しますと、社会とおなじように、教会はあるいはそれに先んじているわけですが、歳を重ねる苦労は同じでも、信仰によってその苦労を味わう幸いも教えられています。ですから、教会は自らの高齢化と向き合い、信仰の香りをはなち、証をするようにと主から、また社会からもチャレンジを受けているように思うのです。
それがどのようにして可能なのか、よくよく学ばねばなりませんが、少なくとも、教会の中で歳を重ねる苦労と味わいを分かち合い、言葉を紡ぐ努力はできるのではないかと思っています。

ナグネ宣教師の来浜

10月13ー16日の予定で来浜されます。14日(日)の主日礼拝を浜松元城教会で説教と聖餐式を、午後2時30分から浜松教会を会場に講演会。「教会とは誰か」という題で講演されます。講演会は分区役員研修会を兼ねて行われますが、どなたでも来ていただきたい公開講演会です。そして、翌15日(月)には分区教師研修会が遠州教会を会場に行われます。この分区教師研修会は分区教師会も兼ねており、前半は教師会で後半13時からは質疑応答による懇談形式で研修をいたします。後半は教師以外の方の参加も可能となっていますね。お覚えください。
なお、ナグネ宣教師は前セムナン教会牧師イ・スヨン先生とともに翌週も平日ですが来浜されます。イ牧師はその週に行われる教団総会の開会礼拝の説教者として教団がお招きするのですが(ナグネ宣教師は通訳として随行)、その折に訪ねてくださることになったのでした。
良い礼拝と諸集会が持てますようにお祈ろするとともに、再会と交わりを楽しみにしています。

40周年を迎えた浜松クリスチャンコワイア

浜松クリスチャンコワイアは今年で40周年を迎えています。その間、浜松・遠州地域にある全ての教派・教会に呼びかけて活動が続けられてきました。この地域では教団には分区の交わりがありますが、他には福音派も含めて教会間の常なる交わりはありません。国際ギデオン教会と浜松クリスチャンコワイアがその活動を通じて教会間の交わりを繋いできてくださっています。今年の市民クリスマスは41回目となります。多くの方々にクリスマスの歓びを知っていただきたいと企画準備が進められています。すぐにポスターやチラシが届くかと思います。
ご存知のように、浜松クリスチャンコワイアの代表は遠州栄光教会住吉の生駒修二さんで、住吉礼拝堂で練習を重ねてこられました。今年から私たちの教会の早川美香さんもリーダーとなり、活動の更なる充実をと取り組んでおられます。40周年、41回目の市民クリスマスが祝されて、コワイアのささげる讃美が用いられ、福音が喜ばしく証しされるようにと祈り、応援いたしましょう。

ネットでつなぐ聖書黙想

を企画しようと考え、取り組み始めました。

水曜日に行なっている聖書黙想と祈りの会のような交わりをインターネット上で持とうというものです。

普段、教会に集えない方、また、家にいるときも聖書の学びと祈りの時を持ちたいと願っておられる方、そしてご老人も参加していただけますから、聖書の言葉に結ばれた交わりに加わっていただけます。

少し欲張っているのですが、分区や近隣の牧師方にも協力いただき、若い先生方には経験を積む場となり、経済的に困難を覚えている教会には助けになれば良いと密かに願っています。