敬老祝賀愛餐会によせて

父の口から出た言葉をふと思い出すことがあります。先週の金曜日の朝には「いつかはいくらでも休むことができる時が来る。」を思い出しました。
これは「休みもとらずに、なぜそんなに働き続けるのですか。」と尋ねた私への返事です。父は自分の仕事も人生も天職と受け取っていました。天職とは神様のcallingによってということです。父は人生の残酷さ、無常、儚さをもちろん味わい知っていました。先の言葉はその延長ともとれますが、そうではなくて「休む」には「安息」の意が込められていたと感じます。天職の先に安息が待っている。仕事を退いた後も天職としての人生がある。安息へと向かう人生を辿っているという自覚です。
水曜日に聖書黙想と祈りの会で読んだ箇所に、「わたしはあなたに天の国の鍵を与えよう。」と主がペトロに向かってお語りになった言葉が記されていました。天国の鍵とは神さまのご支配へと開く鍵です。神さまが御子を通して与えてくださった罪の赦しの恵みを喜び、分かつ務めを指しています。教会は罪の赦しを告げ、この地上のすべての人の歩みが安息へと向かうものとなるようにと祈ります。教会に招かれて、私たちの歩みも天職callingとされています。そうなのです。はい。

リニューアル

9月からの黙想と祈りの会
13日の聖書黙想と祈りの会はマタイによる福音書16章13〜20節を取り上げ、今月から少しやり方を変えることにしました。今まではその日の聖書箇所をその日で閉じて、翌週は違う箇所を選ぶようにしていましたが、黙想を深めるために、1箇所を二週かけて扱うことにしました。ですから20日も同じ箇所を取り上げます。
ついでに「黙想」の定義ですが次のように言い換えます。「聖書を囲む会話」「聖書との対話」です。聖書を開いて自分が自分自身と対話することもありましょう。また水曜日の会のように何人かの人と一緒に聖書を囲んで会話を交わすこともあります。二つは別々ではなく、普通は同時に行われます。御言葉である主イエスのもとに招かれて聖書の言葉を囲んで会話する、それが水曜日の黙想だと受け止めてください。
先週、週報4面に高齢化の進む教会は主から、また、社会からチャレンジを受けていると書きました。私たちは歳を重ねる苦労、その辛さも幸いも信仰によって味わうことがゆるされており、その味わいを証しする言葉を紡いでいきたいと申しました。それは決して大そうなことではなく、普段の「聖書を囲む会話」の積み重ね、つまり聖書の言葉とともに歳を重ねる日々の中から生まれてくるのだと思います。
20日は、「あなたはわたしを誰と言うか」という主の問いかけを感じる時、また、主を証しする難しさを語り合い、ペトロが与えられたという天国の鍵のことについて話し合います。アンデルセンやグリム童話にある鍵をめぐるお話も紹介されます。私は。「心の鍵屋さん」というごく最近作られた小さな物語を紹介するつもりです。お時間を作ってご参加ください。

高齢化と教会

4ー6日、ベテルホームにショートステイでお世話になりました。そこでしかお会いできない方々とお話できるのは嬉しいことです。今回は食事の折に、向かいの席にお座りの91歳のお爺様とお話することができました。耳が少し遠いのですがきちっとしたお話ができる方でした。ハッとさせられたのですがその方は昭和2年のお生まれでした。昭和生まれの方が90歳を超える時代になったのだと、改めて気付かされたのでした。
今日、高齢人口の割合が高くなっていますが、教会はさらにその割合が高く、今年から9月の敬老祝賀会は、今までとは違って、高齢会員に新たになられる方を老いも若きもお祝いするということになりました。
さて、教会の高齢化を憂う向きもあります。けれども、私は高齢化が進む教会はチャレンジを受けていると受け止めるべきだと、最近、思うようになりました。どういうことかと申しますと、社会とおなじように、教会はあるいはそれに先んじているわけですが、歳を重ねる苦労は同じでも、信仰によってその苦労を味わう幸いも教えられています。ですから、教会は自らの高齢化と向き合い、信仰の香りをはなち、証をするようにと主から、また社会からもチャレンジを受けているように思うのです。
それがどのようにして可能なのか、よくよく学ばねばなりませんが、少なくとも、教会の中で歳を重ねる苦労と味わいを分かち合い、言葉を紡ぐ努力はできるのではないかと思っています。

ナグネ宣教師の来浜

10月13ー16日の予定で来浜されます。14日(日)の主日礼拝を浜松元城教会で説教と聖餐式を、午後2時30分から浜松教会を会場に講演会。「教会とは誰か」という題で講演されます。講演会は分区役員研修会を兼ねて行われますが、どなたでも来ていただきたい公開講演会です。そして、翌15日(月)には分区教師研修会が遠州教会を会場に行われます。この分区教師研修会は分区教師会も兼ねており、前半は教師会で後半13時からは質疑応答による懇談形式で研修をいたします。後半は教師以外の方の参加も可能となっていますね。お覚えください。
なお、ナグネ宣教師は前セムナン教会牧師イ・スヨン先生とともに翌週も平日ですが来浜されます。イ牧師はその週に行われる教団総会の開会礼拝の説教者として教団がお招きするのですが(ナグネ宣教師は通訳として随行)、その折に訪ねてくださることになったのでした。
良い礼拝と諸集会が持てますようにお祈ろするとともに、再会と交わりを楽しみにしています。

40周年を迎えた浜松クリスチャンコワイア

浜松クリスチャンコワイアは今年で40周年を迎えています。その間、浜松・遠州地域にある全ての教派・教会に呼びかけて活動が続けられてきました。この地域では教団には分区の交わりがありますが、他には福音派も含めて教会間の常なる交わりはありません。国際ギデオン教会と浜松クリスチャンコワイアがその活動を通じて教会間の交わりを繋いできてくださっています。今年の市民クリスマスは41回目となります。多くの方々にクリスマスの歓びを知っていただきたいと企画準備が進められています。すぐにポスターやチラシが届くかと思います。
ご存知のように、浜松クリスチャンコワイアの代表は遠州栄光教会住吉の生駒修二さんで、住吉礼拝堂で練習を重ねてこられました。今年から私たちの教会の早川美香さんもリーダーとなり、活動の更なる充実をと取り組んでおられます。40周年、41回目の市民クリスマスが祝されて、コワイアのささげる讃美が用いられ、福音が喜ばしく証しされるようにと祈り、応援いたしましょう。

ネットでつなぐ聖書黙想

を企画しようと考え、取り組み始めました。

水曜日に行なっている聖書黙想と祈りの会のような交わりをインターネット上で持とうというものです。

普段、教会に集えない方、また、家にいるときも聖書の学びと祈りの時を持ちたいと願っておられる方、そしてご老人も参加していただけますから、聖書の言葉に結ばれた交わりに加わっていただけます。

少し欲張っているのですが、分区や近隣の牧師方にも協力いただき、若い先生方には経験を積む場となり、経済的に困難を覚えている教会には助けになれば良いと密かに願っています。

8月5日週報4面です

創世記29-31章には叔父ラバンのもとでの過ごすヤコブの物語が記されていなす。来週、29章を取り上げますので、短く概要をご紹介します。夏休みの宿題ではありませんが、予習のつもりでお読みください。できれば聖書もお開きくださると嬉しいです。
ヤコブはハランに着きました。何も持たないで逃げだしてきたヤコブは喜びのあまり大粒の涙を流し、母リベカの兄ラバンもヤコブを歓迎しました。
ラバンは羊や山羊を飼う牧者で、ヤコブは手伝うようになります。ところが、ラバンは大変ひねくれた策略家で、ヤコブが優れた牧者であることを知って自分のもとにとどめようとします。
結婚を巡ってヤコブは手玉にとられてしまいます。ラバンにはレアとラケルという2人の娘がいました。ヤコブはラケルを愛し、すぐにでも結婚したいと願っていましたが、欺かれてレアのために七年。愛するラケルのために七年、結果的には20年の歳月をラバンのもとで仕えることとなります。
神はラバンのもとで仕えたヤコブを祝福されました。
レアとラケル、そして、それぞれの召使いとの間に11名の息子と1人の娘とを与えられ、いつのまにかラバンよりも多くの家畜と僕たちをもつようになりました。
そして別れの時が来ました。ラバンのもとで得た多くの富をたずさえて、父のところへと戻って行くのでした。

7月29日週報4面です

25日の黙想と祈りの会で読んだのはマタイ福音書18章1節以下でした。次のようなイエス様の言葉が記されていました。

『1そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。

2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、

3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。

4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。

5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」』

難しい言葉は一つもありませんが、それだからでしょうか、厳密に理解したいと思うと、重要な言葉の意味が曖昧に感じられてきます。それで、この言葉を心にとめる人は、いろいろなことを考え始めるのではないかと思います。偉いと言うことの価値や評価。子供の良さとは何か。子供を受け入れるとはどう言うことか。等々です。これらをイエス様の言葉とともに思いめぐらしはじめます。黙想と祈りの会でもそうでした。そして和やかな中にも、日々の生活で感じるいろいろなことが話題に上りました。黙想の楽しさを味わうひと時でした。

     それはそれとして、言葉を詮索してみました。「一番偉い」と訳されているのはμέγας(メガ「大きい」)と言う語の比較級μειζωνで、ここでは、具体的に何と何が比較されているというわけではないので最上級(一番偉い、あるいは大きい)と訳されるようです。マタイ福音書にはこの「大きいー小さい」を巡って交わされるイエス様の興味深いお言葉がいくつも記されています。

    次に「子供」ですが、辞書には性別による区別が生じていない幼い子供と書かれています。幼稚園児のように、まだ、区別や優劣が意識されない幼子ということでしょうか。

少しでもイエス様のお言葉がクリアーになれば良いのですが。

洗礼式があります

7月15日の主日礼拝で洗礼式を執り行いますので、洗礼に関することを書きます。


洗礼はイエス・キリストに結ばれてその死と復活にあずかります。ローマの信徒への手紙6章4節に「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」とあるとおりです。
これに関連して、次週の説教で取り上げるつもりですが、高倉徳太郎という先生が「深い生命」という説教の中に残しておられる言葉をご紹介いたします。「聖なる神の前に自己をかえりみ、罪を悔いる心にも深さはやどります。・・・ともすれば、私たちの魂は、水に浮かぶひさごのように、沈めても沈めてもぽかりぽかりと浮き上がります。傲慢だから、浮き上がるのです。自分がぐっと浮かび上がってくるのです。・・・ただ神の前に、自己の姿をまともに見つめて、心より懺悔する人は、深く沈んでついに神にまで上り行く人です。・・・十字架のキリストを黙して待つ。上から命の水はしたたり落ちて、必ずわがうちに、淵をなします。自分が自分を掘るのではありません。キリストが自分のうちに深き命を掘って下さるのであります。罪人の中に、罪の深さの中に、それにもまさる恵みの深さを掘り出して下さるのであります。」
主イエス・キリストの父なる神をあがめ、聖霊の祝福を祈りましょう。

2018/06/03の週報4面です

神の国を求める

「天国が素晴らしいところだと信じていても、だからといって、自ら命を絶った人は一人もいません。」,Appleの創業者スティーブ・ジョブスの言葉です。入学して半年で退学し、身を置いたのはたった一年半。その母校から招かれて、ある年の卒業式で門出を祝うスピーチをしました。その時の一節です。人生は、与えられている時を辿るのだから精一杯良く生きるようにということでしょう。その通りだと思います。,
ところで、なぜ「一人もいない」のでしょうか。それは、天国は自分で乗込むことはできず、招かれてこそ入るところだからですし、私たちは主にあってすでに天国に結ばれていて、それ故に地上の歩が天国への旅路とされている、からでありましょう。
その旅路について語る、「老いを登る」という言葉があります。老いは坂道ですが下るのではなく登り道。その険しさを私も少しづつ想像できる歳になりました。登ってもたどり着くことなく、しかも、霧に包まれてもいます。しかし、ある登山家の言葉が心に留まりました。濃い霧に包まれている頂に立って語った言葉です。「晴れていたら、ここから見ることができる景色はどんなだろう。きっと素晴らしいことだろう。ワクワクしています。」