守る、ということ

以下は週報の4面に載せていただいた短文です。

守られていること、守ること

  「信仰を守る」あるいは「礼拝を守る」「教会を守る」という言い方で「守る」という言葉が使われます。新約聖書のユダの手紙を読んで、あらためて教えられたのですが、「守る」ということは「守られている」ことと裏表一体の関係にある、なければならないということです。

   「守る」と訳されるユダの手紙にある語のことをあらためてご紹介します。ある辞書の説明によると、この動詞は『ながめる』『注目する』『気づく』『理解する』という意味を持つ古語に由来しており、失われたり傷つくことがないように ガードすること。「見守る」「世話をする」というニュアンスがある、と説明しています。

   新約聖書には68回用いられており、目立つのはヨハネ福音書に16回、使徒言行録に7回、ヨハネの手紙一に7回、黙示録に10回です。そしてなんとユダの手紙には5回です。

用例は多岐にわたります。「掟を守る」「わたしの言葉を守る」「見張る」あるいは「番をする」、「とどめておく」「監禁する」などと訳出されています。

その一つ一つを先の辞書の説明を頭に入れて読み直してみる必要があると思います。例えば、「掟を守る」「わたしの(主イエスの)言葉を守る」という場合、直ちにそれを「実行する」「行いとなる」と読み換えることはできないと思います。「よく見て、理解し、留める」ことと、掟や主の言葉がその真意において皆に受け止められているかどうかを「見守る」こととが含まれています。掟を通して神さまが私たちをガードし、永遠の命に結んで世話をしてくださっているからです。神さまに守られている、そのことを私たちの歩みの中で味わい知り、味わい知る歩みを守っていくこと、それが信仰生活における「守る」という語の意味だと思います。

ユダの手紙は「召されている」と言って、私たちに守ることを促し、戒め、教えています。

少し詳しくNotionに書き込みました。

 

新年のご挨拶に代えて

下記は3日(日)の週報4面用の文です。今年もよろしくお願いいたします。

守られている
年末年始には新約聖書の「ユダの手紙」と格闘しました。たった25節しかない、ほとんど目に止まることのない手紙です。格闘とは大袈裟ですが、今まではついつい読み過ごしてしまっていたけれども今回は丁寧に読んだ(読む努力をした)ということです。その結果、「守られている」あるいは「守る」ということに思いを向けることになりました。
手紙の冒頭に「父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ。」とありますが、「守る」と訳される元の語はテーレーオーという動詞で「見る」という意味の古語に由来し、「見守る」「世話をする」という趣があります。ユダの手紙には5回も用いられ意味深長に織り込まれているので(新約聖書全体では66回です)、「守られている」「守る」という事柄に焦点が当てられていることに気付かされます。
これについては詳しくいつかご紹介することができればと思いますが、今は新年らしく祈りの言葉をご挨拶とさせていただきます。
「父なる神に愛されており、主イエス・キリストに守られている」との御言葉を心に刻み、その幸を味い知る年となりますように。アーメン

Merry Christmas!!

救い主の御降誕を記念するこの時、神さまの祝福を祈り上げます。

12月24日に集まることができた兄弟姉妹とともに聖夜礼拝をささげました。その時の説教を下記にご紹介いたします。


ルカによる福音書2章8~14
「きよしこの夜」

暗い夜でした。羊を守るひつじ飼いたちも、恐れと不安の中におりました。
ところが、突然、天の使いが現れて、羊飼いたちに「恐れるな」と語りかけました。

羊飼いたちは恐れました。おおいに恐れました。
夜の闇の中に輝き出た光が、羊飼いたちをおそったのです。
聖書が伝える一番最初のクリスマスの夜でありました。

私たちも、恐れにを抱いています。恐れを、そして、不安を抱きつつ生きています。わたくしたちの間に、「そんなことないさ」と言うことができる人はいるでしょうか。

わたしたちが時として経験する恐れは、わたしたちの生きること、喜ぶこと、良きこと、健やかなことを、壊したり、奪い取ったり、押しつぶそうとする力に出会って、受けるものです。
そして、わたしたちの時代も恐れをもたらすものが、黒雲が空を覆うように、覆いかぶさっています。
今年は、ことにコロナ禍によってその暗さが増しているように思われます。

恐れの襲うとき、私たちは何をするでしょう。砦を築き、自分を守ろうとします。
砦、すなわち、身を守る丈夫な家を建てて、恐れをもたらすものが通りすぎるようにと努めます。
いかなる絶望にもかかわらず、自分を失わないですむための避難所を作り、必死に、自分を守ろうとします。
それは、恐れという土台の上に立てられる砦です。そこでは、恐れが生きる糧となります。恐れが養分として摂取されます、
疑いや偏見、差別や自己中心という我が儘が育ちます。時には乱暴なことにもなりましょう。

しかし、羊飼いたちに臨んだ恐れは、それとは違いました。
私たちが自分を安全な場所に避難させ、砦を築く。その最後の砦をも破壊してしまう、そのような力が、羊飼いたちに臨んだのでした。
天の窓が大きく開かれて、強い光が差し込み、天の軍勢をひきいる総大将、天使ガブリエルが、羊飼いたちの前に現れました。
天が襲って来たのでした。
もはや、隠れることも、身を守ることもできません。大きな聖なる恐れが羊飼いたちを襲いました。

「恐れるな」。
それはがリスマスの日の、最初の言葉でした。
そして、天使は次のように告げました。
「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

乳飲み子、まことに小さな乳飲み子、この地上の力がほんの少しでも加われば、死んでしまうような乳飲み子が、貧しい飼い葉桶の中に、しかし、安心しきって、静かに眠っている。これが、救い主のしるしである。そう告げたのでした。

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美普教会と教会制度

週報の4面に載せていただいた文章をご紹介いたします。

浜松元城教会の教派的なルーツはメソジスト・プロテスタント教会(美普教会)で、監督制度ではなく長老制度の教会です。そのことに関連する文章です。


プロテスタント・メソジスト(美普教会)のこと

教会は言うまでもなくイエス・キリストがその福音によって治めていてくださる交わりです。その統治に仕えるために教会には職制・制度があります。メソジスト教会はジョン・ウェスレイが召されて(1791年)後、教会の統治のあり方を定めることに苦労し、主流派は監督制と呼ばれる念密な制度を確立していきました。米国ではメソジスト監督教会と呼ばれ、南北戦争で北と南に分裂しますが、米国における主要な教派の一つとなりました(今は再合同して他のグループも合流し、ユナイティッド・メソジスト教会となっています)。しかし、監督制度による教会が唯一のメソジスト教会ではありませんでした。1837年に監督制へと向かう流れに抵抗してプロテスタント・メソジスト教会が生まれます。これは監督制の特徴が大雑把な言い方ですが教職中心であることに抵抗して、信徒を含む長老の参与を重要なこととして教会の制度に組み込むことを志向するものでした。1843年に生まれたウェスレアン・メソジスト教会(後のカナダ・メソジスト教会)も同様です。他にもいくつかあります。
いずれにしても、教会制度とその運営は聖霊によって罪深い人間の手に委ねられるわけです。そして、教会がイエス・キリストの統治を具現化するために腐心した歩みの一コマとして監督制度を採らないプロテスタント・メソジスト教会が生まれました。その腐心の流れは今日の日本キリスト教団の教憲・教規にも反映されています。

モバイル・コミュニケーションと教会

コロナ禍によってキリスト教会においてもモバイル・コミュニケーションの必要性が認識されるようになりました。

教会に集まることが容易ではない状況下で。礼拝を守るための工夫が求められました。ことに都会の教会は苦労が大きかったことでしょう。工夫の一つがインターネットを用いるということでした。

牧師が礼拝の時間にyoutubeやfacebookなどを利用して聖書朗読と説教を配信したり、ごく限られた人数で行う礼拝堂での礼拝を配信して教会員には家庭において礼拝に連なってもらうことが試みられ、実施されました。

それに伴って新しい教会用語も生まれました。「公開礼拝」「非公開礼拝」「対面礼拝「非対面礼拝」などです。そのようにして、モバイル・コミュニケーションが教会においても身近なものとなりました。

隣国韓国ではインターネットによって礼拝に連なることを好む人々が増えて、それを通常のこととして取り入れる動きが活発になっている、と聞きます。

また、米国などでは聖餐式もインターネットで結んで行うという教会もあるようです。

ウィズ・コロナの時代の教会の有り様が真剣に検討されなければなりません。

近代聖書学の方法論批判

私の神学大学大学院時代の同級生が「聖書を読む色眼鏡からの解放」という題の小文を書いて送ってくれました。東京大学元教授のA氏とその影響を受けた聖書学関係者の聖書の読みを批判しているのです。その要点の一つは聖書テキストを丁寧に読んでいないのではないかということです。

ここでその内容を紹介することはいたしませんが、「聖書を読む色眼鏡からの解放」という題が面白いと思いました。A氏もその流れの中におられますが、近代の聖書学はご存知のように「眼鏡からの解放」を出発点としています。「眼鏡」とは教会の伝統です。正典として聖書を受け止めている伝統と言えば良いでしょうか。その眼鏡を取り払うことによって聖書をより良く読める、読むようにしようと言うのが近代聖書学の出発でした。しかし、その近代聖書学は眼鏡の代わりに色眼鏡をかける結果となっている。そのような含みが読み取れます。

そのことを私なりに近代聖書学の方法論の変遷を辿りながら考えてみたいと思います。

近代聖書学は旧約聖書研究が先行しました。ことに五書研究においてです。律法と呼ばれてきた創世記から申命記までの五書は長い間モーセの手によって書かれたと考えられていたのですが、そのモーセ著者説を疑い、ひとりの人によって書かれたのではなくて多くの伝承が集積したものであることを明らかにし、五書の成り立ちにはいくつかの資料(伝承の束)が想定観測される。その認識が共有されることとなりました。二資料説にはじまり四資料説へと展開してきた知見です。そのような旧約聖書研究が新約聖書研究ことに共観福音書研究に影響を与えました。

伝承史研究、様式史研究

私が神学大学に学びはじめた頃のことですが、図書館で借りて手にした注解書、ことに共観福音書の註解は、同じ伝承によるテキスト(平行記事)に関しては、マタイもマルコもルカもほとんど変わりがないというものでした。長い伝承史研究を経て辿り着いた成果が反映しているのですが、3福音書に共通する平行記事には多少の、あるいは時には大きな差異・異動が見られますが、註解者がしている作業は3福音書の異動を比較した上で、マタイやマルコやルカのそれぞれの福音書に取り入れられる以前のより古い元のテキストがどのような姿であったかを確定し(もちろん仮説です)、その時点で持っていたであろう意味をテキスト解釈として示すというものでした。ですから、左記の仮説を共有している研究者たちの註解はマタイを読んでもマルコを読んでもルカを読んでも同じような註解になります。ちょっと言い過ぎたでしょうか。それが伝承史と呼ばれる方法論です。

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敬老祝賀に寄せて

今年はコロナ禍のために恒例の敬老祝賀会を行いません。その代わりに週報の4面に毎週、「ひふみん」こと棋士の加藤一二三さんの著書『老いと勝負と信仰と』の中から加藤さんの言葉をご紹介しています。ちなみに、先週の4面は以下のごとくでした。

棋士の「ひふみん」こと加藤一二三九段の著書『老いと勝負と信仰と』ですが、祈りの人だけあって優れた祈りの言葉をいくつも紹介しておられます。以下引用です。『もうひとつ、「希望の祈り」をご紹介して、この章の締めとします。この祈りは次の章の「直感精読」の神秘(信仰)と理性、あるいは第4章の「剛毅」と「柔和」の話にもつながると思います。
神よ、私に変えられないことは、
そのまま受け入れる平静さと、
変えられることは、すぐにそれを行う勇気と、
そしてそれを見分けるための智慧を、
どうぞ、お与えください。』
良く知られたこの祈りとともに、次の言葉が添えられえいます。『カトリック信徒なので聖書や聖人の言葉をもとに、祈り、信仰を語りましたが、これはキリスト教に限らずでしょう。信仰を持ち、祈ることで謙虚になり、視野が広がると思います。
たとえば山を登るときには苦しいこともあるけれど、美しい花や緑、風を感じ、霊気を感じ爽やかな気持ちになります。あるときパッと視野が広がり、眼下にはいつもとは違う風景が見渡せる……。
実際の高い山を目指すのには強靭な体力が必要ですが、信仰の山は年齢とは関係なく、逆に年を重ねるごとに上を目指すことができます。』

8月23日(日)の週報4面記事です

コロナ禍で教会の礼拝に出席できない日曜日をどのようにお過ごしですか?

安息日として過ごすことをお勧めします。

今は日曜日もすっかり世俗化してしまいましたが、欧米ではかつて社会全体で日曜日を安息日として過ごす習慣がありました。日曜日にはほとんどの商店は店を閉じ、人々は教会に集う他は家で過ごすのが一般的でした。

25年ほど前、米国ミシガン州のあるご家庭に日曜日を挟んで泊めていただいたことがありました。グランドラピッツという街の郊外です。一家は敬虔なクリスチャンで、日曜日にはこんな過ごし方をしておられました

朝8時30分からの教会の礼拝に出席します。礼拝は1時間ほど。礼拝後に短いコーヒータイムがあり、挨拶を交わして帰宅。昼食を皆で準備します。御馳走です。食前に一家の主人が聖書を読み祈ります。その日は奥さんが短い奨励をなさいました。楽しく食事と団欒です。

食後は、みなそれぞれがゆったりとした時間を家の中で過ごします。オリンピックの開催期間中でしたがテレビはスイッチオフです。新聞もその日は読みません。何をしているかと言うと聖書を読んだり読書をしたり、庭の手入れをしたりして過ごしておられました。夕方、何かしたいか、と訊ねてくれたので、ショッピングモールに行きたいと答えたら、日曜日は買い物をしない、とおっしゃって、でも連れて行ってあげると言ってくれました。ショッピングモールには行かないんですね普通は。モールはそれなりに人がいました。お土産を買って戻りましたが、夜もまったりと過ごしました。

安息日としての日曜日を過ごしておられるな、と感じました。

安息日は休む日です。一家の団欒がそこにはあり、霊的な静寂さ、そして、休むことで神に栄光を帰する安らぎがありました。

私たちは日曜日をどう過ごすか、真似をすることはありませんが、良い習慣を身につけて行きたいと思います。コロナ禍の今はそのチャンスだと思うのです。

ルカ福音書12章の小さなまとめ

小さい群れと今の時

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカによる福音書12章32節)は主イエス・キリストのお約束です。
12章には小さいと大きいを巡って多様なイメージが織り込まれています。全部を拾い上げることはできませんが、例えば1節には大きいこととして「数えきれないほどの群衆」が登場し、「足を踏み合うほどであった」とその状況が説明されています。文字通りには「互いに踏みにじり、踏み倒す」です。お互いが神さまに造られた者としての尊厳を認め合うことができないでいる様子が映し出されています。また、15−21節には「愚かな金持ち」の譬えがあります。彼は「大きい倉」を建てて収穫物を貯め込み自分の手の中に一切を治めます。そして満足安心しようとするのでした。しかし哀れな終わりを迎えます。倉を持たない空の鳥や儚いけれども神さまが装ってくださっている野の花とは対照的です。
小さいことについては29節に『寿命をわずかでも延ばすことができない」、つまり神さまによって造られた被造物が小さい者として描かれています。詩編8に通じます。
「小さな群れ」とは神さまにより頼み、その御心のうちに生かされており、希みを与えられて歩んでいる群れということでありましょう。キリストの「再び来たりたもうを待ち望む」群れです。8月2日の礼拝で読まれる、12章最後の箇所では、贖い主である裁判官のもとへと向かう道を歩んでいると語られています。