教会の暦

教会には独自の暦があります。それによると2018年は次週の主日25日が一年で最後の日曜日となり、12月2日(日)から待降節を迎えて、新しい年になります。

私たちの教会は教会の暦に緩やかに従う慣しになっています。日本キリスト教団の多くの教会は多少の強弱はありますが同様かと思います。

待降節(アドヴェント)に入るとクリスマスの季節になります。日本では商業優先で街々にはすでにクリスマスツリーが飾られていますが、欧米のように待降節になってから飾るのが本当です。

浜松元城教会も12月に入ってから飾り付けをいたします。

少年野球の思い出

姪の小学校5年生の次男が少年野球ののチームに入っていて、近々遠征して鎌ヶ谷球場で試合をするという話を聞きました。

私も小学校6年生の時に軟式野球をしていて当時住んでいた渋谷区の大会に出て優勝したことを思い出しました。第一回戦から勝ち進み、準々決勝は日曜日の午前中に設定されました。その日、母が日曜学校を休まないように、もしも休んで試合にいくなら「もううちの子ではない」と言って行かせてくれなかったのでした。

鬼のような顔でそう言われては行くわけにはいきません。日曜学校に出てから試合会場へと向かいましたが試合は終わっておりました。そのことを思い出したのでした。母は厳しかった。

 

驚いて、納得したこと

先週ツィッターを見ていて驚いたことがありました。東京工業大学で美学を講じておられる伊藤亜紗さんと言う方が、ご自分のゼミで学生たちと一緒に愛をテーマとして話し合い、エーリッヒ・フロムという人の「愛するということ(原題はThe Art of Loving で、日本語では『愛の技術』という副題を付して原意が分かるように配慮されています)を取り上げるとのこと。この本は私が20才前後の頃に、つまり40年以上前、いや50年近く前に話題になり、私も読みました。当時は恋愛結婚至上主義の風潮でしたが、その流れに竿をさすように著者は米国人であるにもかかわらず、見合結婚の勧めをされていました。その意味するところは、いっときの恋愛感情で結婚というゴールに至るのではなく、結婚は他者であるお互いの間柄に愛を育んでいくスタートであって、芸術家が芸術作品Artを丹念に作り上げるように、愛を育み、作り上げる技術を必要とする、と問いかけるのでした。
40年以上前に話題になった書物ですから「えっ!なぜ今?と驚かされたのです。著者の伊藤亜紗さんは美学を専門とする方ですが、身体論に結んで興味深い著作を著しておられます。「どもる体」は吃音と体について論じていました。今私が読んでいるのは「目の見えない人は世界をどう見ているか」です。視覚障害と体、つまり、目の見えない人が世界をどのように認識し、どのように関わって(見て)おられるのかを研究考察しています。読みやすく興味深い本です。美学というのは言葉にしにくいもの(代表的なものは美や芸術でしょう)を言葉にしようとする学問のようですが、目の見えない人を違う身体を持った人、すなわち自分はいつも自分にとっての当たり前を前提にして理解しようとして、その結果誤解し無理解でいてしまう他者、と表現しておられますが、その他者へと向かう目線と、理解しようとする取り組み、その姿勢、著者は愛が不可欠と感じておられるのでしょう。きっと。
愛は自分にとっての当たり前を排して、あるがままの他者へ近づく道であり、人と人と、つまり他者との交わりを作り上げていくものなのですね。Artとしての愛、なるほどと納得しました。

ナグネ宣教師への一つの応答

14、15日の二日間、日本キリスト教団派遣宣教師で韓国長老会神学大学校で教鞭をとっておられるナグネ(洛雲海)准教授を迎えて有意義な時を過ごすことができました。

ohn神学のことも話を聞くことができました。韓国のキリスト教事情を背景に生起した神学ムーブメントです。それは私たち日本基督教団の閉塞状況を克服するという観点からも有意義なムーブメントではないだろうかというのがナグネ宣教師のお考えでした。

詳しくここではご紹介できませんが、キリスト教界が一つの樹木であるとすれば、根を深く広くはり、枝を大きく広くのばして、生き生きと堂々とした大樹であるように、そのために神学が役割を果たし牽引しようとする神学ムーブメントのようです。

ohnとは韓国語で完全なとか、全体的・総体的なとか、丸く欠けのないと言った意味のようです。キリスト教界が神学的に、あるいは宣教論と実践において、ややもすると分裂し、それぞれに偏りを生じさせており、その多様性が必ずしも豊かであるとは言えず、硬直し枯渇しかねないという危惧があるわけですが、そうではなくてohnを目指して神学的な実のある対話、議論を喚起していこうということのようです。

大変なエネルギーを必要とすると思いますが、精力的に取り組もうとしています。現状は、その対話と議論の場、土俵作りですね、その段階のようです。なんだ、と思わないでください。土俵作りの議論も神学的に大変な作業だと思いますし、そこからすでにohn神学ムーブメントの重要な議論が始まっているとも言えましょう。

期待したいと思います。私は概ね賛同します。

 

10月14日(日)週報の4面です

日本基督教団総会(23ー25日)に向けて
ある日本の哲学者が朝日新聞のコラムに「民主主義の内在的欠陥ー同等の観念ー」という一文を寄せていました。「民主主義という政治体制は人はみな平等であるという原則の上に成り立っている。これは人類が勝ち取った誇るべき原則である。誰もが平等に尊重されねばならないという価値観もここから導き出される。」そう記して、
「だが民主主義における平等にはもう一つ別の側面がある。平等に与えられた権利にふさわしくあるよう、自らの言葉や考えを鍛え上げることが期待されるという側面である。」と述べています。
ハンナ・アレントを引用して、古代ギリシアの民主政を参照しながら平等と同等を区別し、後者の重要性を強調しておられるます。そして、「民主主義は民衆に、政治参加の権利を行使するにふさわしい水準の者どもと同等の存在になろうとすることを求める。だから民主主義社会では、教育による人物の涵養(かんよう)や報道による情報提供などの必要性を誰も否定しない。」と綴っておられます。もちろん、誰に対しても同等の水準を強要するというようなことがあってはなりません。人はそれぞれ違った賜物を与えられているからです。「しかし、それがことさらに求められる一群の人々がいる。それは政治家でである」と。
この同等の水準という要件がどのようにしたならば出来得る限り実現し、保たれるかを考えることは大切なことでありましょう。10日後に日本キリスト教団総会を控えていますが、教会政治においても同様で大事な指摘だと思いました。

台風24号による影響のこと

浜松では珍しいことですが今回は台風による影響を受けました。30日(日)夜、まさに暴風が吹き荒れました。またその影響で静岡県のみならず、東海地方広域にわたる停電が起き、4日現在、だいぶ復旧したとはいえ、完全復旧には至っていないようです。

下記に記しましたが、袋井教会の被害とその後の修繕のことが気になります。お祈りくださるとともに、お支えいただきたく存じます。

台風24号で被害を受けられた方々、そして諸教会、諸施設の皆様にお見舞い申し上げます。私どもの教会では礼拝堂のスレート瓦が何枚か飛び散ったのと、牧師館裏庭に大きな飛来物がありました。トタン屋根のようです。その付随物が牧師館の屋根などにぶつか…

浜松元城教会さんの投稿 2018年10月3日水曜日

「サタン、引き下がれ。」とペトロに

「サタン、引き下がれ。」と主はペトロに向かって言われました。マタイによる福音書16章23節です。先週の聖書黙想と祈りの会で読んだ箇所です。
サタンという語はアラム語の一方言に由来するそうです。告訴人、非難する者というのが素朴な意味で、悪魔あるいは神に敵対して人間を誘惑する者と説明されます。主イエスは父なる神のご意思であることを受け止めて、ご自身の受けるべき苦難と十字架のことついて、そしてご復活についてお話しになった時、ペトロは主イエスをわきにお連れして、いさめ始めたのでした。主イエスの前に立ちはだかり、その歩もうとされる方向を変えようとしたのでした。そのペトロを主は「サタン」と呼び、「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたのでした。
「引き下がれ」とは文字通りには「わたしの後ろにいなさい」です。そこは弟子の正位置です。主に伴わせていただくために、主イエスは私たちにも「引き下がれ」「わたしの後ろにいなさい」と仰ってくださいます。その言葉を幾たび聞かせていただいたことでしょうか。そしてこれからも繰り返し聞かせていただくことでありましょう。

敬老祝賀愛餐会によせて

父の口から出た言葉をふと思い出すことがあります。先週の金曜日の朝には「いつかはいくらでも休むことができる時が来る。」を思い出しました。
これは「休みもとらずに、なぜそんなに働き続けるのですか。」と尋ねた私への返事です。父は自分の仕事も人生も天職と受け取っていました。天職とは神様のcallingによってということです。父は人生の残酷さ、無常、儚さをもちろん味わい知っていました。先の言葉はその延長ともとれますが、そうではなくて「休む」には「安息」の意が込められていたと感じます。天職の先に安息が待っている。仕事を退いた後も天職としての人生がある。安息へと向かう人生を辿っているという自覚です。
水曜日に聖書黙想と祈りの会で読んだ箇所に、「わたしはあなたに天の国の鍵を与えよう。」と主がペトロに向かってお語りになった言葉が記されていました。天国の鍵とは神さまのご支配へと開く鍵です。神さまが御子を通して与えてくださった罪の赦しの恵みを喜び、分かつ務めを指しています。教会は罪の赦しを告げ、この地上のすべての人の歩みが安息へと向かうものとなるようにと祈ります。教会に招かれて、私たちの歩みも天職callingとされています。そうなのです。はい。

リニューアル

9月からの黙想と祈りの会
13日の聖書黙想と祈りの会はマタイによる福音書16章13〜20節を取り上げ、今月から少しやり方を変えることにしました。今まではその日の聖書箇所をその日で閉じて、翌週は違う箇所を選ぶようにしていましたが、黙想を深めるために、1箇所を二週かけて扱うことにしました。ですから20日も同じ箇所を取り上げます。
ついでに「黙想」の定義ですが次のように言い換えます。「聖書を囲む会話」「聖書との対話」です。聖書を開いて自分が自分自身と対話することもありましょう。また水曜日の会のように何人かの人と一緒に聖書を囲んで会話を交わすこともあります。二つは別々ではなく、普通は同時に行われます。御言葉である主イエスのもとに招かれて聖書の言葉を囲んで会話する、それが水曜日の黙想だと受け止めてください。
先週、週報4面に高齢化の進む教会は主から、また、社会からチャレンジを受けていると書きました。私たちは歳を重ねる苦労、その辛さも幸いも信仰によって味わうことがゆるされており、その味わいを証しする言葉を紡いでいきたいと申しました。それは決して大そうなことではなく、普段の「聖書を囲む会話」の積み重ね、つまり聖書の言葉とともに歳を重ねる日々の中から生まれてくるのだと思います。
20日は、「あなたはわたしを誰と言うか」という主の問いかけを感じる時、また、主を証しする難しさを語り合い、ペトロが与えられたという天国の鍵のことについて話し合います。アンデルセンやグリム童話にある鍵をめぐるお話も紹介されます。私は。「心の鍵屋さん」というごく最近作られた小さな物語を紹介するつもりです。お時間を作ってご参加ください。

高齢化と教会

4ー6日、ベテルホームにショートステイでお世話になりました。そこでしかお会いできない方々とお話できるのは嬉しいことです。今回は食事の折に、向かいの席にお座りの91歳のお爺様とお話することができました。耳が少し遠いのですがきちっとしたお話ができる方でした。ハッとさせられたのですがその方は昭和2年のお生まれでした。昭和生まれの方が90歳を超える時代になったのだと、改めて気付かされたのでした。
今日、高齢人口の割合が高くなっていますが、教会はさらにその割合が高く、今年から9月の敬老祝賀会は、今までとは違って、高齢会員に新たになられる方を老いも若きもお祝いするということになりました。
さて、教会の高齢化を憂う向きもあります。けれども、私は高齢化が進む教会はチャレンジを受けていると受け止めるべきだと、最近、思うようになりました。どういうことかと申しますと、社会とおなじように、教会はあるいはそれに先んじているわけですが、歳を重ねる苦労は同じでも、信仰によってその苦労を味わう幸いも教えられています。ですから、教会は自らの高齢化と向き合い、信仰の香りをはなち、証をするようにと主から、また社会からもチャレンジを受けているように思うのです。
それがどのようにして可能なのか、よくよく学ばねばなりませんが、少なくとも、教会の中で歳を重ねる苦労と味わいを分かち合い、言葉を紡ぐ努力はできるのではないかと思っています。