譬話につて

イエスさまはしばしば譬えでお話になりましたが、水曜日の聖書の黙想と祈りの会では、このところマタイによる福音書の譬え話を取り上げています。
譬えとはなんでしょうか。そのことをお話したいと思います
一般に譬えは例話であると考えられているかもしれません。例話とは難しい真理をやさしく印象深く伝えるために、具体的で身近なお話に置き換えることです。例えば落語はその一例です。落語は昔の僧侶の辻説法に起源があると言われています。まず「まくら」では、仏法の深遠な教えが提示され、続いて、愉快なあるいは心にしみいる「お話」があり、最後に「おち」で締めくくられます。説法に引き込まれ、それを聞き終わると、深遠な仏法が心におさまり、納得するに至ります。辻説法のあるいは落語の「お話」が例話にあたります。イエスさまは無学な漁師たちに聖書の真理を解きほぐして印象深くお話になった、それが譬えであると一般にはそう考えられているのです。
そのような一面が確かにありますが、譬えは例話以上のものです。旧約聖書にも新約聖書にも多種多様な譬えが見られます。ヘブル語ではマーシャールと呼ばれます。謎の言葉です。ギリシャ語ではパラボレーで、英語のパラブルはこれに由来しています。パラとは傍にという意味で、傍に置くあるいは投げるというのがその意味です。
目に見えない真理や説明しきれない事実に目を開かせるためにその傍に置かれた話、それが譬えです。イエスさまは譬えで神の国についてお語りになりました。最近の聖書の研究者は譬え話の根っこには隠喩とと呼ばれる特殊な言葉の彩が観察されると言っています。そのことは、改めていつかご紹介しますが、隠喩は説明するのではなく、開示する言葉です。その顕著な特徴は歪みです。不合理なこと、不自然さがあるということです。その歪みが重要で意味深いと言われます。開示する力が宿っている。ですから
譬え話を読むときには、譬え話の中に見られる歪み(しばしば合理化されてしまいますが)に着目して味うと良いと言われるようになりました。参考にしていただければ幸いです。

神の義とは(5月13日の週報4面です)

先週に引き続き、今年度の教会方針に関連して、ご説明します。

聖書が語る神の「義」(旧約聖書のヘブル語ではツェダーカー、新約聖書のギリシャ語ではディカイオス)の意味するところを一言で説明することは不可能です。それは聖書全体を貫いて証しされる神のまこと、神ご自身の在りようだからです。

あえて、大胆に「ふさわしさ」「ふさわしくあること」と言い換えたいと思います。そうすることができると思います。神が神ご自身との関係において、また、神が被造物(私たち)との関係において示される「ふさわしさ」「ふさわしくあること」それが義です。

余談ですが漢字の「義」という文字は祭儀において屠られる羊を意味しているようです。捧げものですね。そこではふさわしいものが捧げられ、ふさわしいありようが生じると信じられていました。聖書は神の愛する独り子が十字架においてご自身を神に献げて罪人である私たちの贖い(救い)となってくださったと語っています。それは神の義、神がふさわしくあることであったと言うのです。まことに驚くべきことです。ですから義は「愛」と置き換えられることもあります。

そして、神はその義によって私たちを義とし、つまり聖霊によって私たちが喜んでそのことを受け入れ、私たちを神との関係においてふさわしいものとし、私たちが私たちの間においても、互いにふさわしくあるようしてくださるのです。

主イエスは「神の義」を求めなさいと仰せになり、神がそのことを喜んでくださるとお教えくださいます。

神の国とは(5月6日週報4面より)

今年度の教会方針に関連して、「神の国」についてご説明します。

新約聖書では「天国」とか「御国」とも表記されていますが、「国」とは「支配」ということです。「神の義と愛と平和によるご支配」です。御手が伸ばされて置かれている、それが神の国ということができましょう。  

    ですから、地上のどこかに目に見える仕方で神の国があるというわけではありません。また、私たちが思い描くユートピアのことでもありません。どんなに理想的と思われる所があったとしても、だからそこが神の国であるというわけではありません。誰の目から見てもここが神の国であると言えるように、私たちに分かりやすく示して欲しいと思うかもしれませんが、神のご支配は私たちの思いを超えていますので、私たちには捉え難く、思い描くことはできません。また、私たちが悲惨だと感じ、たとい人間の罪と愚かさと悲しみが折り重なっているところであっても、神の国と無関係であるとは言えません。神が御手を伸ばしてくださり、御手をおいてくださる、そこが神の国です。そして、その神の国は御言葉(イエス・キリスト)によって私たちのうちに開示され拓かれ、信仰において結ばれます。また、信仰において結ばれた者たちの交わりが神の義と愛と平和のご支配を映し出すことになります。私たちはまったき神の国の到来と実現を待ち望みながら、御言葉によって神の国に拓かれ、御言葉のもとで「御国を来らせたまえ。」と祈ります。教会がそのような交わりであり、そして私たちの社会が少しでも神の国(義と愛と平和によるご支配)を映し出すこととなるようにと願い、祈りたいと思います。

フライングですが その2

私の所属する日本基督教団東海教区西静分区総会(5月11日)に向けて当日配布するために認めた文章を、フライングですがここに投稿します。これは、分区だけではなく浜松元城教会総会においても同趣旨のことを申し上げようと考えているところのものです。分かりにくい文章ですが寛容な心でお読みください。

なお、フライング そに1もお読みください。

このような呼びかけをさせていただく背景には、教会員の高齢化と教勢の停滞というどこの教会も抱えている厳しい現実を受け止めざるを得ないという状況もあります。そして、今、何をなすべきかということであります。


諸教会の堅立と伝道の継続・推進のために

分区総会議長 張田眞
分区諸教会、また兄弟姉妹の皆様の参画を得て、教会と分区が直面している諸課題を検討し、何をすべきか、何ができるかを研究しつつ、少しずつでも福音の伝道と証しが前進していくように、そのための良き施策を見出したいと願っています。
検討・研究のための手段や為すべきことについての具体的なアイデアが既にあると言うわけではありません。いわばゼロからの出発です。とりあえずは、今総会で議員の皆さまから自由にご意見やご提案をいただき、分区総会議長の責任で何らかの手段を見出し、取り組んでいきたいと考えています。宜しくお願いいたします。
少し先走ることになりますが、何を為すかということに関して私の頭の中に思い浮かんでいることを紹介させていただきたく思います。お許しください。
それは一言で申し上げますと、「教会人」が育まれ、そして「聖なる者の僕として生きる人々」が育ち生まれていく分区を形成していこうということです。そのためには、私自身もそうですが、遣わされている教師がさらに豊かに成長させていただく必要がありましょう。信徒の方々も教会生活を通してさらに恵みに豊かにあずかることを願っておられるにちがいありません。主日礼拝の充実、聖書を読み祈り讃美をささげること、その喜びが分かち合われることが大切です。言うまでもないことですが恵みにあずかって恵みに仕える者は、神の恵みによる良き経験(労苦)を重ねることによって成長することとなりましょう。西静分区は信仰の先輩たちが残してくださった遺産(人を癒し、仕え人を育む諸事業とそこに従事してこられた人々とその経験)があります。何らかのつながりを得て、この地域と諸教会がともに聖なる者の僕として成長して、神によって人の育まれるところとなるようにと願います。
キリスト者が育まれることについて、昔から「霊性の涵養」ということが言われてきました。私の定義ですが、霊性とは聖霊によってわたくしたちのうちに具わる気質のことで、それは神の国を待ちつつ絶えず神の国に向かって歩もうとするキリスト者の人格の根底となっている性質です。繰り返しますが霊性は聖霊の働きにより私たちのうちに創られます。また、霊性が培われることを「涵養」と言い表します。それは降り注いだ雨が土の中に浸透していき、帯水層をなし、地下水となって。ついには地表を潤すように。長い時間をかけて培われることを言い表しています。霊性は、そのようにして私たちのうちに醸成され、神の国を待ちつつ神の国へと向かう歩みを牽引することとなります。霊性の涵養こそ「教会人」を育て「聖なる者の僕」を育む要点と言えましょう。神を礼拝し御言葉に聞き、讃美しつつともに教会形成のために、また宣教のために労する不断の営みをとおして霊性は培かわれます。
マルチン・ルターの言葉として伝わっていますが、「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの苗木を植える」という言葉があります。昨今、私自身が終わりを自覚するようになったからでしょうか、この言葉に惹かれています。その意味するところは黙示録的な文脈のもとで理解できると言われます。世界が滅びるとは困難や苦難を伴う終末を意識した表現ですが、しかし、神が新しい天と新しい地とをもたらしてくださるという希望がたたえられています。つまり、どのようなときにも、世界と私たち自身に根ざすことによって希望を持つことも失望することもせず、神の国と神の義とを求め、1日1日の労苦にあずかるということです。神はキリストの十字架において恵み深くいてくださいました。ご自身を義とされたのでした。そのことを覚え、恵みののもとに苗木を植える(十字架の福音のもとに立つ)ということです。関連しますが「いつも海の上に帆をはって、心を港につないでおかない。」という言葉もあます。神の恵みという大海に心の帆をはって、自分という港にそれを決してつながない。私たちはそのようにして自由において生きるのだと思います。
さて、分区の課題は多々ありますが、良き志を与えられ、主にある交わりを豊かなものとなし、必要なそして役に立つツールにも習熟し、事柄にじっくりと取り組むことができる環境を整えること。そのことも重要な検討課題となりましょう。西静分区に連なってよかったと皆が喜び合える分区として成長させていただきたいと願います。

フライングですが その1

2017年度も西静分区諸教会の交わりが祝されたことを感謝いたします。そして2018年度も共に福音にあずかり、福音を証しする歩みとなるように祈りましょう。

                         分区総会議長 張田眞

昨年は分区総会を前にして、私が病に倒れてしまいご心配をおかけし、また、ご迷惑をおかけしました。幸い、兵頭辰也牧師が分区議長代行を務めてくださり、分区における教会の交わりがつつがなく守られました。感謝いたします。

さて、年度末には教師の移動がありました。遠州栄光教会の平野芳子牧師と盛合尊至伝道師が新たな歩みへと向かわれ、同教会には山本克己牧師と江間紗綾香牧師が着任、無牧であった袋井教会には川中真牧師が赴任されました。お三人の先生方を心から歓迎するとともに、それぞれの教会の歩みが主にあってますます健やかなものとなりますようにと願い祈ります。
2018年度ですが、各委員会の担当者に変わりはありません。引き続き分区活動が着実に行われ、諸教会の形成と伝道に助けとなるようにと願っております。また、教会員の高齢化と教勢の停滞が続いていますので、この厳しい状況を受け止めて、諸教会の堅立と伝道の継続・推進のために力を注ぎ、取り組むべきことは何かを検討し、信仰に根ざした明確なビジョン共有し、良き施策を見出していきたいと願っています。別紙をご覧ください。ご協力をお願いいたします。

葛藤しながら

こんなことを書き始めています。

張田 眞さんの投稿 2018年3月23日(金)

3月18日週報4面です

黙想と祈りの会より

先日、マタイ福音書9章、12年間も病のもとにあった女性が主イエスを見ると「この方の服に触れさえすればなおしてもらえる」と思って近寄って後ろから主イエスの服の房に触れると癒されたという物語を読みました。
 この婦人の信仰を軽く見積もったり、批判的に見る人もいます。日本的に言えば、お地蔵さんをさすれば病気が治るというような迷信に似ているからです。 しかし、マタイ福音書は、この女性の中に、信仰をみてとっており、それを描き出しています。
 関連して一つのことをご紹介します。
 イーヴァントという神学者がドイツにおられました。宗教改革者マルチン・ルターの研究者です。この方の書かれた書物の一つに、「ルターの信仰論」という小さな本があります。
 この書物は1940年といいますから、もう80年前に書かれた古い書物ですが、日本語に翻訳されていなす。翻訳されたのはドイツ語で書かれてから何十年も後のことでに、この書物の評価が高く、長く読まれ続けているということを示しています。
 この書物の中に、マルチン・ルターの有名な言葉を取り上げて、次のようなことが記されています。
 キリストのもとにある信仰者というのは、「罪人であり同時に義人」と言い表すことができる。それは、こういうことだ、と言うのです。
 神様との交わりについて、一般には、私たちの内に罪がもはや認められなくなった時に神との交わり、その恵みが私たちに開かれる、と思われている。反対に、罪が認められるところでは、恵みは失われている、と思われている。けれども、それは違う。そうではない。
 そうではなくて、人が失われた者であること、すなわち罪を認識し、汚れ、絶望している人間、まさにその人間に、神は近くいます。それが真実である。
 罪人であることを深く認める、そこに真実に信仰が生きるのだ、というのです。
 そのことをキリストは私たちに教え、ご自身を差し出していてくださる、そう記しています。
 12年間も病で苦しみ、汚れを身に負った婦人が、イエスさまの衣の房に触れました。イエスさまが聖なる方であり、神のものであられる。そのしるしに触れました。それをイエスさまは信仰であるとおっしゃる。あなたの信仰があなたを救ったと言われるのでした。
 ある人が、こんなことを言っています。「主イエスは、彼女の存在そものも、その生涯、そして、信仰、そのすべてを受けとめようとされる。ご自分の御手の上に、彼女を置く。ささやかな信仰、誤りもそこに宿っているであろう彼女の信仰をも、ご自分の御手の中にお包みになる。そして、ご自分の御手によって、その信仰を、また、彼女のすべてを、新しくされる。お救いになるのである。」

りんごの苗木を探して

「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える。」この有名な言葉は宗教改革者ルターの言葉とされてきました。不思議と勇気を与えてくれる言葉ですが、この言葉をめぐって書かれた書物「ルターのリンゴの木」です。

この本の著者は1931年生まれ、1974年から1996年までヴッパータール大学で組織神学と歴史神学を講じてこられた。本書が出版されたのが1994年(日本語訳は2015年)。退職してまもなく深刻な脳梗塞に倒れ(66歳か67歳のことであろう。)、身体にひどい麻痺が残って研究生活ができなくなったとのこと。翻訳者によると著者最後の著作ということになろうということでした。
なお、翻訳者があとがきで「著者の文章は、議論の筋道が錯綜している上、挿入文が多く、省略もかなりあって翻訳にあたって苦労も多かったので、途中非力をも顧みず翻訳し始めたことを後悔することもあったが・・・」と記しておられるが、そのご苦労が分かるような気がする。
加えて、19世紀のドイツ敬虔主義諸グループへの容赦ない言及は、ほとんど知識のない私の頭を悩ませている。ただ、この点については学ぶ機会や手立てがないので本書は良い勉強の機会にはなっている。
そのうち、読書レポートを書きたいと思う、けれどもいつになることやら。

今日届きました。しばらく前から私の思いの中でですが、ルターが語ったと伝えられる例の言葉、そのリンゴの苗木とは何を意味しているのかという関心がわき起こってきていたので、書名に惹かれて購入しました。自分の終末を身近に感じられるようになったから…

張田 眞さんの投稿 2018年3月10日(土)

2月18日の週報四面です

最近はすっかりiPadで聖書を読むようになりました。入院して以来のことです。口語訳聖書は多くありますが新共同訳聖書を読むことのできるアプリは少ないです。それでも、2つのアプリを見つけて使っています。そのうちの一つは、英語のテキストも並べて読むことができるようになっています。また、ドレという方の版画も見ることができます。もう一つのアプリは機械的な朗読ではありますが音声で聞くこともできます。右手しか動かせない私にはありがたいです。旧約聖書のヒブル語や新約聖書のギリシャ語のアプリもあり、簡単な辞書もついています。便利になりました。神学生の時代にiPadがあれば良かったのになあと思ったりもします。

さて、14日の黙想と祈りの会ではマタイによる福音書9章1ー8節を取り上げました。2節にイエス様のもとに運ばれてきた中風の男に「子よ、元気を出しなさい。」と語られたイエスさまのお言葉が記されています。「元気を出しなさい」という語は新約聖書に8回出てきますが、「勇気を出しなさい」という意味とともに、「喜びなさいbe good cheer」「しっかりしなさい」と訳されることもあります。心にとまりました。