ヤコブ書による受難節(明日の週報4面です)

1章5節で「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」と新しい小段落がこのように語り初められています。知恵とは「処世術に通じる賢さ」ではありません。生きぬく賢さ、術ではありすが、神の救いの御心に結ばれて知る賢さ、知恵のことです。

わたしたちは、わたしたちにとって何が救いなのか良く分からないのではないでしょうか。悲しみや喜び、愛や憎しみ、正しいと思うことや悪いと思うこと、いろいろなことが織り合わされ、編み込まれている世の中に身を置いて、何が救いであるのか良く分からないでいます。
聖書は、しかし、神様が独り子イエス・キリストをとおして救いの御心をあらわしてくださったと告げて、その御心に結ばれて知る知恵、賢さを備えてくださったと教えています。

ヤコブ書は 、その知恵を「惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に」願い求めなさいと語っています。

「惜しみなく」と訳されている元の語は、調べてみると「編む」という意味の語から組み立てられていることがわかります。その語は新約聖書に3回だけ用いられており、マタイ27章29節、マルコ15章17節、ヨハネ19章 2節です。いずれも「(いばらで冠が)編まれた」ことを伝え、惜しみなく与えてくださる神とは、いばらで編まれた冠を冠とされた独り子イエス・キリストの十字架において救いをこの世の中に織り込み、まことの知恵をお与えくださるお方であることを記念しています。

躓かず、疑わず、怒らない。ヤコブ書にも関連して。

先週の聖書箇所にも、今週の箇所にも「躓く」あるいは「躓かない」という言葉が出てきました。
この言葉は、よく耳にするスキャンダルという英語の語源にあたるギリシャ語で、動詞はスカンダリゾー、名詞はスカンダロンです。「腹をたてる」というのが元々の意味です。
道を歩いていて、思いがけないところに石ころがあって、それに気づかずにつまずきます。すると誰がこんなところに石を置いたのか、と言って腹を立てます。小さな子どもであれば怒ってその石を投げ捨てることでしょう。そして、その石が誰かにあたってしまう。するとその人も、腹を立てて怒り出します。その怒りをどこにぶつけるというのででしょうか。闇雲に、周囲に怒りをぶつける。そんなことを時々目にします。時々というよりも、昨今の社会の姿になってしまっている、そんな感じがしないでもありません。そうでなければ幸いです。
自戒を込めて申しますが、自分は他の人に躓きを与えているに違いないのに、テレビのワイドショーで、他の人のちょっとしたスキャンダルでも見聞きすると、腹を立てて怒りを抑えられないそんなことがあります。そして、時には、その鬱憤をはらさずにはおれないとばかりに声高に物申すというありさまです。ヤコブ書1章6節に「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。」とあります。疑うとは神に躓いて自分の思うようにいかないと腹を立てているということだと思います。そのような人は風に吹かれて揺れ動く海の波に似ているというのです。元の言葉は海が膨れ上がる、打ちつける、荒れ狂うという語です。疑う人はそのようだというのです。面白い表現だなあと思いました。
今日は「躓かない」という説教題です。主のお言葉に聞きましょう。

第3回原稿下書きです/私の仕事はボゥ〜としていること

私の仕事はボゥ〜としていること

『ボゥ〜と生きてるんじゃねえよ!』と誰かに怒鳴られそうですが、牧師が仕事をしている時は周の人からはボゥ〜としているように見える、そんな時が案外多いのではないでしょうか。
結婚してまもない頃、まだ20代後半でしたが、同じ町のずっと先輩の牧師先生が私たち夫婦に「牧師がボゥ〜としている時は仕事をしているのだから『あなたー、ボゥ〜としてないで、何々してちょうだーい!』などと言って邪魔をしてはいけませんよ」と仰ってくださいました。「聖書の言葉を思いめぐらし、教会のことや社会のあれやこれやのことについて考え、また祈りつつ説教の準備をしていたりしているのだから。」と。確かに読書することを含めて私もそのような時を過ごします。そして、集中すると時間が経つのを忘れてしまうこともあります。その時、周囲の人からはボゥ〜としているように見えるのではないでしょうか。
余談ですが、あの牧師先生の言葉を聞いた時、根っからボゥ〜っと生きている私は「我が意を得たり」という思いになりました。しかし、もしも、その先生が私のことをよくご存知であればきっと違った表現で仰ってくださったことでありましょう(笑)。良いか悪いか分かりませんが、有難いことにその時以來、ボゥ〜としていてもめったに邪魔されることはありません。ところが、ところが、その時間をこともあろうに、自分が放棄してしまう。そこに留まり続けることが必ずしもできるわけではないのです。いたずらに多くのことに思い悩み、心を乱しており、何かを急いで処理しなければならないと駆り立てられる。ルカ福音書10章に出てくる姉マルタが顔を出します。そして、牧師の肝心な仕事にたどり着かないのです。そうです。私たちはマルタの時間に慣れ親しみすぎているのです。

私は一昨年病気をして以後、ボゥ〜とする時間がさらに増えました。まだ若いつもりでいましたが、高齢者の仲間に入れていただいたということもあるのでしょう。しかし、それは特権でもあります。何かを処理するための時間とは違う時間が与えられているからです。
聖書の言葉に聞き、聖書が開かれるのを待つことができる時間です。主イエスの足下に座って、聞きいっていた妹マリアの時間と言えば良いでしょうか。それはいつ終わるかわかりません。きっと神さまがみ言葉を我が内に開いてくださる。その時それは閉じられることでありましょう。

二つの時間を生きるために

私たちにはマルタの時間が与えられているだけではありません。マリアの時間も与えられています。二つが編みこまれているのではないでしょうか。
これも余談ですが、私が最近ボゥ〜としている時に側にあるのはタブレットです。商品名を出して申し訳ありませんがApple社製ののiPadです。長時間同じ姿勢でいることが難しいので、どこにいても側に置いておけて、仕事の多くをまかなうことが出来るからです。教会HPの更新はもちろん、インターネットを使って種々な連絡にあたったり、時にはネット会議にも出席しますし、文章や説教原稿を書くこともできます。この原稿はgoogleドキュメントを開き、液晶キーボードや、音声入力を用いて綴っています。
最近の楽しみの一つはタブレットを使っての聖書の味読です。旧約聖書と新約聖書を原語で読むことができて、かつ簡易で気の利いたヘブル語とギリシャ語の辞書が付いている聖書アプリがありますのでそれを使ってヤコブの手紙を味読しています。味読と言っても語句をゆったりと眺めて観察するだけのことです。ヤコブの手紙はそのような味読に適しているように思われます。観察経過はメモ代わりにTwitterに投稿します。誰かに読んでもらうためではありません。あくまでも自分のためのメモです。その時はiPadの画面半分には聖書アプリが、別の半分にはTwitterが動いています。そして、区切の良いところで立ち止まっては、まとめの文章を書いて自分のブログに載せるようにしています。それを楽しんでおられるかどうかは分かりませんが教会の方々が読んでくださっています。遅々たる歩みですが、味読に取組んでみるといろいろな発見と思い巡らしに誘われて楽しいものです(もちろん、時には苦しいこともあります)。一例ですが1章5節に「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。」とあります。「惜しみなく」と訳されているのはαπλωςです。その語の根にはπλεκω(編む)を観察することができます。「編む」と訳されるπλέκωは新約聖書に3回だけ、マタイ27章29節、マルコ15章17節、ヨハネ19章2節に用いられており、いずれも荊で冠が「編まれた」ことを伝えています。十字架上の主イエスを仰ぎつつ「惜しみなくとがめだてしないで」という言葉を思い巡らすことになりました。ついでに、もう一つご紹介します。この手紙は「離散している十二部族の人たちに」(1章1節)宛てられていますが、この言い回しは著者の教会についての自己理解と受けとめて良いように思われます。その語を観察すると興味深いことに種まきと発芽と成長のイメージが浮かび上がってきます。「離散」はディアスポラです。それはσπείρω(スペイロー種を蒔く-散らす-)という語から組み立てられています。また「十二部族」の「族」はφύω(発芽する、発育する)に由来する語です。ですから遠くに散らされて点在し、何やら試練にも遭遇している教会ですが、神の民としてみ言葉の種が蒔かれて発芽し、成長している。ヤコブの手紙はそのプロセスをεργον(働く)こととして表現し、受けとめているように思われます。私たちがまず働くのではありません。働きに与り、その成就を待ちます。
このように語句の詮索をタブレットで楽しみつつ、ボゥ〜としている次第です。それは大事なそして楽しい私の仕事となっています。

マリアの時間を共有しましょう

さて、前回記したことですが、Twitterでの聖書黙想です。タブレットでもスマホでも良いのですが、どなたかがTwitter経由で聖書テキストを読むことができるようにしてくださり、黙想(聖書を囲む会話)の進行役を担当してくださり、牧師がこれもTwitter経由でテキストについての必要最小限の情報や関連する教理的神学的事柄の解説を簡潔に書いて読めるようにしてくだされば、参加者は忙しい生活の中にあっても、教会の兄弟姉妹と共にボゥ〜とする幸を分かつことができ、それは聖書が開かれるのを待つ新たな時間の始まりとなりましょう。

「超高齢化と5G回線時代の教会」と題してまとまりのない話を3回続けて書かせていただきました。IT(インフォメーション・テクノロジー)の加速度的な発達とそれに伴う社会の変化について、私たちの認識は追いついてはいませんが、それはマルタの時間のために用いられるものとおもわれており、好むと好まざるとに関わらず、私たちの身近な現実となっています。しかし、忘れてならないのは、ITはコミュニケーションのツールであって、マルタが占有するためだけではありません。もしもそうであれば、ITの更なる発達は人間を欲望へと駆り立て、あるいは機械のごとくに取り込むだけとなりましょう。忘れてならないのは、私たちは二つの時間を生きているということです。マリアの時間のためにITを用いたいというのが私の提案です。同時に、それは教会員の高齢化が進む教会の交わりのあり方を見直す良い機会を提供してくれているようにも思われます。

兄弟を得る

水曜日の聖書黙想と祈る会ではこのところマタイ福音書18章と19章を取り上げてきました。Twitter上での模擬共同黙想でも同じところが取り上げられて、ゆったりとお付き合いができるので、テキストに編まれての会話が佳境に入っています。

事細かにご紹介できませんが、おおよそ下記のような展開になっています。

18章15節に「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」とあり、赦しをめぐって19章に至るまで譬え話も含めてイエス様のお言葉が続いています。18節には「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」ともあり、天上(神の国)との関連で私たちの身近な人間関係に目が向けられます。近いが故に経験する人間関係の難しさが「頑固」(19章18節)という語で浮き彫りにされて、聖書を読みながら恥ずかしい思いになるのですが、「恵まれている」との主のお言葉と18章の譬えで示唆される神さまの大きな赦しに思いが向けられて、地上の歩みが神の国を待ちつつ歩む旅路とされていることに気づかされます。

「兄弟を得る」とは主にあって結ばれる新たな関係、大きな赦しのもとに共に立つ友情と友人を得るということでありましょう。古い友との関係においても、頑固がぶつかり合う夫婦関係においても、それを得ることになると主は仰ってくださっているのだと思います。

19章のはじめは離婚について取り上げられているのですが、たとい離婚することがあっても兄弟を得るために、ということでありましょう。

 

第2回の原稿を改めて推敲しました

Twitterでできる教会の交わり

イメージとしてのソーシャル・ビューイング

目の見えない人の絵画鑑賞、ソーシャル・ビューイングというワークショップがあるそうです。伊藤亜紗著「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(光文社新書)に紹介されていました。実に興味深い書物ですが、この本のことはTwitterで知りました。また、著者の他の著書やそれに関連する情報、その後の研究動向についてもTwitterで知ることができています。
話を戻しますが、それはおおよそこのようです。一つの作品の前に集まります。見える人たちの中に見えない人が加わります。見える人が作品を見て説明や受けた印象などを声にして発します。色彩はどう説明されるのでしょうか。色彩だけではありません。描かれている物の形状や配置、パースペクティブなど難しそうです。工夫を要することでしょう。断片的で、抽象的でもあるそれらの声を聞いて、見えない人は頭の中に作品を思い描くのだそうです。そして、見えない人も声を発し、やりとりが続きます。そのようにして頭の中の作品は何度も描きなおされていきます。それが見えない人の絵画鑑賞ということになります。
さらに興味深いことですが、見える人も見えない人の声を聞くことによって作品に対する印象が変わったり深まったりして、その人の中でも作品が描きなおされるのだそうです。あり得ることだと思います。見える人と見えない人との相互作用がおこります。ソーシャル・ビューイング、なにやら面白そうです。

高齢者に身近なTwitter

 実は、私はご高齢の方々にタブレットを、そしてTwitterをお薦めしています。ご存知のようにTwitterはインターネットにおけるSNS(ソーシャル・ネットワーク・サーヴィス)の一つです。Facebookは知られていますがTwitterもその代表的なものです。一回140文字以内でツィート(つぶやき)をします。日々の思いや関心事を日記のように、あるいはブログのようにつづります。そして、関心を同じくする人たちと緩やかにつながることができます。
緩やかであることが特徴です。例えば、最初にご紹介した伊藤亜紗さんを私はフォローしてツィートを読ませていただいています。そして、偶にリツィートと言いますが応答のツィートをする時もあります。だからといって特別な関 わりが生じるわけではありません。興味のあるツィートは読み、そうでなければスルーします。実に緩やかなつながりです。もちろん、お互いが望めばリツイートをしあうことで会話を続けることも可能です。色々な人のツィートに出会って楽しく読ませていただいています。ことに私も高齢者の端くれとなりましたので、私よりもずっとご高齢の方々のツィートに目がとまります。老いの特権は独りでゆったりとした時間を過ごすようになることです。そこでも社会との緩やかなつながりは欠かせません。Twitterで関心事を広げて、想いに(思索に)ふける。あるいは時には外出して趣味友達と楽しむ。そのように老いの特権を楽しんでおられる、そんな様子を垣間見ることができて刺激を受けます。もちろん、インターネット上のことですから、心得ておくべき事項がありますが、このTwitterを教会の交わりに生かすことができないだろうかというのが今回のテーマです。

ソーシャル・リーディング

一つのことだけ提案させていただきます。それは聖書テキストを囲む交わりに用いるというこ とです。聖書の黙想を共にする交わりです。私はそれを、キリストに招かれた者たちの聖書を囲んで交わす会話と呼んでいます。ソーシャル・ビューイングならぬソーシャル・リーディングです。そのような集いを重ねておられる教会もありましょう。私の教会でも実施しています。選ばれている聖書テキストを輪読して、しばらく黙読します。最初の黙想です。そして、テキストに触れた手触り感を短く述べ合います。少し砕けた会話にもなるのですがテキストをめぐる会話を続けます。新しい気づきや共感や笑い、ユーモアと言えば良いでしょうか、それぞれの生活や想いがテキストに編みこまれて声となります。共同の黙想、実に楽しい交わりです。
しかし、一緒に集うことによる限界、時間の制約がありましょう。ひとりで黙想に集中する十分ないとまがありません。ところが、そのような交わりをTwitter上で行うことが出きます。模擬的にはじめています。良い点は、一箇所に集うことからくる制約がないことです。参加者は自分の都合のつく時間に聖書を読み、Twitterを開き、ツィートをして交わりに加わります。そして、他の人のツィートを読み、テキストの短い解説や関連する教理的神学的な示唆にも触れ、さらなる黙想を、ゆったりと、自分のペースで行い、リツィートします。それらのツィート(声)は並べて表示されますので、いつでも振り返ることが可能です。Twitter、ソーシャル・ネットワークを用いた聖書を囲む会話、ソーシャル・リーディングです。もちろん、インターネット上のツールはTwitterだけではありません。いくつか試してみましたが、広く使われており、誰にとっても手軽で扱いやすいのでTwitterが一番良いと思いました。教会に集うことが困難なご高齢の方も、入院中の方も、忙しい日々を過ごしている方も、外国に住んでいる方も、それぞれが時間の使い方を工夫して、自分にふさわしい仕方で教会の聖書を囲む交わりに加わることができます。取り組まれたらどうでしょうか。(つづく)

ヤコブ書1章2〜4節のまとめ(その2)

残っているのは4節です。第2回のまとめ(その2)となります。

前回の投稿→ヤコブ書1章2〜4のまとめ(その1)

以下は新共同訳聖書の翻訳です。

あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。

永井直治訳「新契約聖書」です。

されば汝等の完く且つ圓(つぶら)にして、少しも缺くるところなき者たらんために、耐え忍びをして完く働かしめよ。

新共同訳聖書の翻訳は歯切れが良くて魅力的と感じるかも知れませんが、ヤコブ書の細やかな語り口調を捉え損ねているように思われます。

そのことについては徐々に触れていくことになりますが、一言だけあらかじめ申し上げます。4節には、堅忍不抜で勝利の凱旋の先頭に立つように、というような響きはありません。

ここでも永井訳を参照しつつ、原文の語順を辿ります。

①耐え忍びをして完く働かしめよη δε υπομονή εργον τέλειον έχετε,
②されば、あるいは〜ためにίνα
③ 汝等〜者たらんητε
④完くτέλειοι
⑤且つ圓(つぶら)にしてκαι ολόκληροι
⑥少しも缺くるところなきέν μηδενί λείπουμοι.

となります。②から⑥は細かく区切りました。

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慌てて書いた、申し訳ない原稿です

社会福祉法人十字の園の軽費老人ホーム・アドナイ館から隔月発行されている「アドナイ刊」の澪つくしというコラム記事に載せていただく文章です。
締め切りを失念しており、慌てて書きました。この一年間担当させていただいたのですが、執筆者は最終稿まで伏せるということになっており、公表を差し控えてきました。今回が最終なので、ここにご紹介します。
慌てて書いたもので、中途半端な本の紹介になってしまいました。ごめんなさい。

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教会で使うべき道具 最終稿のはずでした

超高齢化社会、教会員の高齢化の時代です、タブレットを活用しましょう。

高齢者の方々にタブレットに慣れていただきたいと身近なところで普及活動を始めました。もちろん、インターネットに繋げてです。
2017年4月に脳出血を発症し、左半身麻痺(障害者)となりました。このような境遇になって、タブレットとインターネットの有難さに気付かされました。入院当初から今日にいたるまで外の世界や社会的な繋がりがタブレットによって保たれていると言っても過言ではありません。FacebookやTwitterで世界中のいたるところにいる友人・知人たちと繋がることができています。本も読みますが体力的に長時間続けることは困難です。私は怠惰ですから、もしもタブレットがなかったらテレビを観るだけの生活になっていたことでしょう。そうそう、タブレットで読むことができる本が多数ありますし、Twitterで興味深い書物に関する情報を得てはその内容に触れ、読みたくなるとネットを介して注文して届けてもらいます。昨年は、久世濃子著「オランウータン」、國分功一郎著「中動態の世界」、伊藤亜紗著「どもる体」、同「目に見えない人は世界をどのように見ているか」、その絵本版であるヨシタケシンノスケ作「みえるとかみえないとか」、ジョージ・ボージャス著「移民の政治経済学」などを、身体の不自由を抱えながらも意欲を駆り立てられて楽しく興味深く読みました。そして読書感想をブログやFacebookで紹介もしました。
病気になる以前から、牧会・伝道のためにHPとブログ、そしてSNSを組み合わせて用いてきましたが、病後はその用い方に力を入れるようになっています。ことに、キリストに招かれた者たちの教会ならではの交わり、つまり、聖書の言葉を囲んで交わすユーモアを含む楽しい会話をSNSを介してできるようになったら良いなあと願っています。それにはTwitterが適していると感じています。

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ヤコブ書1章2〜4節のまとめ(その1)試練と試されること、そして忍耐。

Twitter上でのシリーズ・ヤコブ書探索がやっと1章の4節までたどり着いたので、「まとめ」の第2回目として3-4節を一文にしようと考えましたが長くなりそうなので、前節との繋がりを考慮して2ー4節とし、2度に分けることにしました。

☆ 過去の投稿

第1回、1章1,2節を眺めてみると


3、4節は明らかに一息で綴られており、2節の「試練をこの上ない喜びと思いなさい」(新共同訳)との意味深長な勧め、その真相へと道案内しています。

しかし、十全に日本語に訳出することは難しいだろうなと思わされます。語の持つイメージや、それらの巧みな組み合わせによって文章が綴られているからです。そのことを申し上げた上で、二つの翻訳をご紹介します。

最初は新共同訳聖書です。

2 節) わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。
3節) 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。
4節) あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります

スッキリした立派な日本語です、力のこもった勧告となっていますが、スッキリしすぎているように思われます。

次に永井直治訳「新契約聖書」です。これは可能な限りの直訳で、テキストが醸し出す香りを聞くことができるようにとの思いと労とが注がれています。

2節)我が兄弟よ。汝等さまざまの試みに陥るとき、すべてこれを喜びと勘ふべし。
3節)[これ]汝等の信仰の 験(ためし)は、耐え忍を醸すことを知ればなり。
4節)されば汝等の完く且つ圓(つぶら)にして、少しも缺くるところなき者たらんために、耐え忍びをして完く働かしめよ。

永井訳は2節と3、4節との関連をよく訳出しています。また、直訳を試みているのでよく似た語であっても原文に異なった語が用いられている場合は訳語を変えています。同時に、訳語が十分に適切かどうかは別として、原文に記載されている語をくまなく拾い上げています。大変な労作だと思います。

さて、それではいよいよ3節に足を踏み入ることにしましょう。(日本語テキストとしては永井訳を参照します。)

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1月20日の週報4面です。教会facebookに紹介しました。

明日の日曜日は10時15分から主日礼拝です。創世記37章のヨセフ物語の出だし箇所に心をとめて、イエス・キリストを仰ぎ、神さまを賛美します。下記は明日の週報の4面に載せていただく予定の文章です。ヤコブ書探索は疲れますが楽しいです教会…

浜松元城教会さんの投稿 2019年1月18日金曜日