美普教会と教会制度

週報の4面に載せていただいた文章をご紹介いたします。

浜松元城教会の教派的なルーツはメソジスト・プロテスタント教会(美普教会)で、監督制度ではなく長老制度の教会です。そのことに関連する文章です。


プロテスタント・メソジスト(美普教会)のこと

教会は言うまでもなくイエス・キリストがその福音によって治めていてくださる交わりです。その統治に仕えるために教会には職制・制度があります。メソジスト教会はジョン・ウェスレイが召されて(1791年)後、教会の統治のあり方を定めることに苦労し、主流派は監督制と呼ばれる念密な制度を確立していきました。米国ではメソジスト監督教会と呼ばれ、南北戦争で北と南に分裂しますが、米国における主要な教派の一つとなりました(今は再合同して他のグループも合流し、ユナイティッド・メソジスト教会となっています)。しかし、監督制度による教会が唯一のメソジスト教会ではありませんでした。1837年に監督制へと向かう流れに抵抗してプロテスタント・メソジスト教会が生まれます。これは監督制の特徴が大雑把な言い方ですが教職中心であることに抵抗して、信徒を含む長老の参与を重要なこととして教会の制度に組み込むことを志向するものでした。1843年に生まれたウェスレアン・メソジスト教会(後のカナダ・メソジスト教会)も同様です。他にもいくつかあります。
いずれにしても、歴史の中で聖霊によって罪深い人間の手に委ねられるわけですが、教会がイエス・キリストの統治を具現化するために腐心した歩みの一コマとして監督制度を採らないプロテスタント・メソジスト教会が生まれました。その腐心の流れは今日の日本キリスト教団の教憲・教規にも反映されています。

モバイル・コミュニケーションと教会

コロナ禍によってキリスト教会においてもモバイル・コミュニケーションの必要性が認識されるようになりました。

教会に集まることが容易ではない状況下で。礼拝を守るための工夫が求められました。ことに都会の教会は苦労が大きかったことでしょう。工夫の一つがインターネットを用いるということでした。

牧師が礼拝の時間にyoutubeやfacebookなどを利用して聖書朗読と説教を配信したり、ごく限られた人数で行う礼拝堂での礼拝を配信して教会員には家庭において礼拝に連なってもらうことが試みられ、実施されました。

それに伴って新しい教会用語も生まれました。「公開礼拝」「非公開礼拝」「対面礼拝「非対面礼拝」などです。そのようにして、モバイル・コミュニケーションが教会においても身近なものとなりました。

隣国韓国ではインターネットによって礼拝に連なることを好む人々が増えて、それを通常のこととして取り入れる動きが活発になっている、と聞きます。

また、米国などでは聖餐式もインターネットで結んで行うという教会もあるようです。

ウィズ・コロナの時代の教会の有り様が真剣に検討されなければなりません。

近代聖書学の方法論批判

私の神学大学大学院時代の同級生が「聖書を読む色眼鏡からの解放」という題の小文を書いて送ってくれました。東京大学元教授のA氏とその影響を受けた聖書学関係者の聖書の読みを批判しているのです。その要点の一つは聖書テキストを丁寧に読んでいないのではないかということです。

ここでその内容を紹介することはいたしませんが、「聖書を読む色眼鏡からの解放」という題が面白いと思いました。A氏もその流れの中におられますが、近代の聖書学はご存知のように「眼鏡からの解放」を出発点としています。「眼鏡」とは教会の伝統です。正典として聖書を受け止めている伝統と言えば良いでしょうか。その眼鏡を取り払うことによって聖書をより良く読める、読むようにしようと言うのが近代聖書学の出発でした。しかし、その近代聖書学は眼鏡の代わりに色眼鏡をかける結果となっている。そのような含みが読み取れます。

そのことを私なりに近代聖書学の方法論の変遷を辿りながら考えてみたいと思います。

近代聖書学は旧約聖書研究が先行しました。ことに五書研究においてです。律法と呼ばれてきた創世記から申命記までの五書は長い間モーセの手によって書かれたと考えられていたのですが、そのモーセ著者説を疑い、ひとりの人によって書かれたのではなくて多くの伝承が集積したものであることを明らかにし、五書の成り立ちにはいくつかの資料(伝承の束)が想定観測される。その認識が共有されることとなりました。二資料説にはじまり四資料説へと展開してきた知見です。そのような旧約聖書研究が新約聖書研究ことに共観福音書研究に影響を与えました。

伝承史研究、様式史研究

私が神学大学に学びはじめた頃のことですが、図書館で借りて手にした注解書、ことに共観福音書の註解は、同じ伝承によるテキスト(平行記事)に関しては、マタイもマルコもルカもほとんど変わりがないというものでした。長い伝承史研究を経て辿り着いた成果が反映しているのですが、3福音書に共通する平行記事には多少の、あるいは時には大きな差異・異動が見られますが、註解者がしている作業は3福音書の異動を比較した上で、マタイやマルコやルカのそれぞれの福音書に取り入れられる以前のより古い元のテキストがどのような姿であったかを確定し(もちろん仮説です)、その時点で持っていたであろう意味をテキスト解釈として示すというものでした。ですから、左記の仮説を共有している研究者たちの註解はマタイを読んでもマルコを読んでもルカを読んでも同じような註解になります。ちょっと言い過ぎたでしょうか。それが伝承史と呼ばれる方法論です。

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敬老祝賀に寄せて

今年はコロナ禍のために恒例の敬老祝賀会を行いません。その代わりに週報の4面に毎週、「ひふみん」こと棋士の加藤一二三さんの著書『老いと勝負と信仰と』の中から加藤さんの言葉をご紹介しています。ちなみに、先週の4面は以下のごとくでした。

棋士の「ひふみん」こと加藤一二三九段の著書『老いと勝負と信仰と』ですが、祈りの人だけあって優れた祈りの言葉をいくつも紹介しておられます。以下引用です。『もうひとつ、「希望の祈り」をご紹介して、この章の締めとします。この祈りは次の章の「直感精読」の神秘(信仰)と理性、あるいは第4章の「剛毅」と「柔和」の話にもつながると思います。
神よ、私に変えられないことは、
そのまま受け入れる平静さと、
変えられることは、すぐにそれを行う勇気と、
そしてそれを見分けるための智慧を、
どうぞ、お与えください。』
良く知られたこの祈りとともに、次の言葉が添えられえいます。『カトリック信徒なので聖書や聖人の言葉をもとに、祈り、信仰を語りましたが、これはキリスト教に限らずでしょう。信仰を持ち、祈ることで謙虚になり、視野が広がると思います。
たとえば山を登るときには苦しいこともあるけれど、美しい花や緑、風を感じ、霊気を感じ爽やかな気持ちになります。あるときパッと視野が広がり、眼下にはいつもとは違う風景が見渡せる……。
実際の高い山を目指すのには強靭な体力が必要ですが、信仰の山は年齢とは関係なく、逆に年を重ねるごとに上を目指すことができます。』

8月23日(日)の週報4面記事です

コロナ禍で教会の礼拝に出席できない日曜日をどのようにお過ごしですか?

安息日として過ごすことをお勧めします。

今は日曜日もすっかり世俗化してしまいましたが、欧米ではかつて社会全体で日曜日を安息日として過ごす習慣がありました。日曜日にはほとんどの商店は店を閉じ、人々は教会に集う他は家で過ごすのが一般的でした。

25年ほど前、米国ミシガン州のあるご家庭に日曜日を挟んで泊めていただいたことがありました。グランドラピッツという街の郊外です。一家は敬虔なクリスチャンで、日曜日にはこんな過ごし方をしておられました

朝8時30分からの教会の礼拝に出席します。礼拝は1時間ほど。礼拝後に短いコーヒータイムがあり、挨拶を交わして帰宅。昼食を皆で準備します。御馳走です。食前に一家の主人が聖書を読み祈ります。その日は奥さんが短い奨励をなさいました。楽しく食事と団欒です。

食後は、みなそれぞれがゆったりとした時間を家の中で過ごします。オリンピックの開催期間中でしたがテレビはスイッチオフです。新聞もその日は読みません。何をしているかと言うと聖書を読んだり読書をしたり、庭の手入れをしたりして過ごしておられました。夕方、何かしたいか、と訊ねてくれたので、ショッピングモールに行きたいと答えたら、日曜日は買い物をしない、とおっしゃって、でも連れて行ってあげると言ってくれました。ショッピングモールには行かないんですね普通は。モールはそれなりに人がいました。お土産を買って戻りましたが、夜もまったりと過ごしました。

安息日としての日曜日を過ごしておられるな、と感じました。

安息日は休む日です。一家の団欒がそこにはあり、霊的な静寂さ、そして、休むことで神に栄光を帰する安らぎがありました。

私たちは日曜日をどう過ごすか、真似をすることはありませんが、良い習慣を身につけて行きたいと思います。コロナ禍の今はそのチャンスだと思うのです。

ルカ福音書12章の小さなまとめ

小さい群れと今の時

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカによる福音書12章32節)は主イエス・キリストのお約束です。
12章には小さいと大きいを巡って多様なイメージが織り込まれています。全部を拾い上げることはできませんが、例えば1節には大きいこととして「数えきれないほどの群衆」が登場し、「足を踏み合うほどであった」とその状況が説明されています。文字通りには「互いに踏みにじり、踏み倒す」です。お互いが神さまに造られた者としての尊厳を認め合うことができないでいる様子が映し出されています。また、15−21節には「愚かな金持ち」の譬えがあります。彼は「大きい倉」を建てて収穫物を貯め込み自分の手の中に一切を治めます。そして満足安心しようとするのでした。しかし哀れな終わりを迎えます。倉を持たない空の鳥や儚いけれども神さまが装ってくださっている野の花とは対照的です。
小さいことについては29節に『寿命をわずかでも延ばすことができない」、つまり神さまによって造られた被造物が小さい者として描かれています。詩編8に通じます。
「小さな群れ」とは神さまにより頼み、その御心のうちに生かされており、希みを与えられて歩んでいる群れということでありましょう。キリストの「再び来たりたもうを待ち望む」群れです。8月2日の礼拝で読まれる、12章最後の箇所では、贖い主である裁判官のもとへと向かう道を歩んでいると語られています。

三位一体Trinity

教会の暦では聖霊降臨主日の翌週は三位一体主日となっています。聖霊降臨により父と子と聖霊であられる唯一の神が知られることとなるからです。

三位一体(英語ではTrinity)はキリスト教における神のお名前です。そのことが信条として最初に公に表明されたのは紀元4世紀です。二ケア信条と呼ばれています。父と子と聖霊は栄光においても尊厳においても等しく讃美される神であり、混同されず分離されず唯一の神であられる、とその神秘が言い表されました。

このように三位一体は神のお名前です。近頃は平気で三位一体を一つの用語として世俗的な事柄に適用して用いる人がいますが、神のお名前であるということを覚えてうかつに用いることのないようにしたいものです。

なお、関連するニケア信条後のカルケドン信条、アタナシウス信条などが使徒信条と共に基本信条と呼ばれて公同の教会の信仰として受け継がれています。キリスト教とは教会に伝わる三位一体を信じる宗教です。

三位一体を否定してキリスト教を名乗る宗教団体がありますが、それは私共とは異なる宗教です。それらの宗教団体においてはキリストが成し遂げてくださった十字架と復活による救いの御業と執り成しは僅かではあっても不十分とされ、聖霊によって与えられる救いは不確かです。その不足分を補うために人間が積み重ねるべきなんらかの功績功徳が宗教団体によって恣意的に要請されます。それが信者をコントロールする手段として機能しがちです。

主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりの内に招かれ、また、遣わされるところの幸いを味わい知りつつ教会生活にあずかり信仰の旅路を共に辿りましょう。

iPadで動画編集・作成の練習を始めました

lumafusionというアプリが良さそうなので、たった1200円なのです、アプリをダウンロードしました。
使い方を理解するために助けとなる動画をyoutubeで観ることができます。

短い礼拝案内を作ることから始めています。複数の映像と音とを組み合わせる仕組みが分かってきたのでさらに何か作れるでしょう。
そして、動画をswayというプレゼンテーションアプリに組み込んでみたらどうかな、と構想中です。伝道と教育と交わりのためのツール作りです。

果たしてどうなるか。