フライングですが その2

私の所属するなら日本基督教団東海教区西静分区総会(5月11日)に向けて当日配布するために認めた文章を、フライングですがここに投稿します。これは、分区だけではなく浜松元城教会総会においても同趣旨のことを申し上げようと考えているところのものです。分かりにくい文章ですが寛容な心でお読みください。

こぬような呼びかけをさせていただく背景には、教会員の高齢化と教勢の停滞というどこの教会も抱えている厳しい現実を受け止めざるを得ないという状況があります。


諸教会の堅立と伝道の継続・推進のために

分区総会議長 張田眞
分区諸教会、また兄弟姉妹の皆様の参画を得て、教会と分区が直面している諸課題を検討し、何をすべきか、何ができるかを研究しつつ、少しずつでも福音の伝道と証しが前進していくように、そのための良き施策を見出したいと願っています。
検討・研究のための手段や為すべきことについての具体的なアイデアが既にあると言うわけではありません。いわばゼロからの出発です。とりあえずは、今総会で議員の皆さまから自由にご意見やご提案をいただき、分区総会議長の責任で何らかの手段を見出し、取り組んでいきたいと考えています。宜しくお願いいたします。
少し先走ることになりますが、何を為すかということに関して私の頭の中に思い浮かんでいることを紹介させていただきたく思います。お許しください。
それは一言で申し上げますと、「教会人」が育まれ、そして「聖なる者の僕として生きる人々」が育ち生まれていく分区を形成していこうということです。そのためには、私自身もそうですが、遣わされている教師がさらに豊かに成長させていただく必要がありましょう。信徒の方々も教会生活を通してさらに恵みに豊かにあずかることを願っておられるにちがいありません。主日礼拝の充実、聖書を読み祈り讃美をささげること、その喜びが分かち合われることが大切です。言うまでもないことですが恵みにあずかって恵みに仕える者は、神の恵みによる良き経験(労苦)を重ねることによって成長することとなりましょう。西静分区は信仰の先輩たちが残してくださった遺産(人を癒し、仕え人を育む諸事業とそこに従事してこられた人々とその経験)があります。何らかのつながりを得て、この地域と諸教会がともに聖なる者の僕として成長して、神によって人の育まれるところとなるようにと願います。
キリスト者が育まれることについて、昔から「霊性の涵養」ということが言われてきました。私の定義ですが、霊性とは聖霊によってわたくしたちのうちに具わる気質のことで、それは神の国を待ちつつ絶えず神の国に向かって歩もうとするキリスト者の人格の根底となっている性質です。繰り返しますが霊性は聖霊の働きにより私たちのうちに創られます。また、霊性が培われることを「涵養」と言い表します。それは降り注いだ雨が土の中に浸透していき、帯水層をなし、地下水となって。ついには地表を潤すように。長い時間をかけて培われることを言い表しています。霊性は、そのようにして私たちのうちに醸成され、神の国を待ちつつ神の国へと向かう歩みを牽引することとなります。霊性の涵養こそ「教会人」を育て「聖なる者の僕」を育む要点と言えましょう。神を礼拝し御言葉に聞き、讃美しつつともに教会形成のために、また宣教のために労する不断の営みをとおして霊性は培かわれます。
マルチン・ルターの言葉として伝わっていますが、「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの苗木を植える」という言葉があります。昨今、私自身が終わりを自覚するようになったからでしょうか、この言葉に惹かれています。その意味するところは黙示録的な文脈のもとで理解できると言われます。世界が滅びるとは困難や苦難を伴う終末を意識した表現ですが、しかし、神が新しい天と新しい地とをもたらしてくださるという希望がたたえられています。つまり、どのようなときにも、世界と私たち自身に根ざすことによって希望を持つことも失望することもせず、神の国と神の義とを求めるということです。神はキリストの十字架において恵み深くいてくださいました。ご自身を義とされたのでした。そのことを覚え、恵みののもとに苗木を植える(十字架の福音のもとに立つ)ということです。関連しますが「いつも海の上に帆をはって、心を港につないでおかない。」という言葉もあます。神の恵みという大海に心の帆をはって、自分という港にそれを決してつながない。私たちはそのようにして自由において生きるのだと思います。
さて、分区の課題は多々ありますが、良き志を与えられ、主にある交わりを豊かなものとなし、必要なそして役に立つツールにも習熟し、事柄にじっくりと取り組むことができる環境を整えること。そのことも重要な検討課題となりましょう。西静分区に連なってよかったと皆が喜び合える分区として成長させていただきたいと願います。

フライングですが その1

2017年度も西静分区諸教会の交わりが祝されたことを感謝いたします。そして2018年度も共に福音にあずかり、福音を証しする歩みとなるように祈りましょう。

                         分区総会議長 張田眞

昨年は分区総会を前にして、私が病に倒れてしまいご心配をおかけし、また、ご迷惑をおかけしました。幸い、兵頭辰也牧師が分区議長代行を務めてくださり、分区における教会の交わりがつつがなく守られました。感謝いたします。

さて、年度末には教師の移動がありました。遠州栄光教会の平野芳子牧師と盛合尊至伝道師が新たな歩みへと向かわれ、同教会には山本克己牧師と江間紗綾香牧師が着任、無牧であった袋井教会には川中真牧師が赴任されました。お三人の先生方を心から歓迎するとともに、それぞれの教会の歩みが主にあってますます健やかなものとなりますようにと願い祈ります。
2018年度ですが、各委員会の担当者に変わりはありません。引き続き分区活動が着実に行われ、諸教会の形成と伝道に助けとなるようにと願っております。また、教会員の高齢化と教勢の停滞が続いていますので、この厳しい状況を受け止めて、諸教会の堅立と伝道の継続・推進のために力を注ぎ、取り組むべきことは何かを検討し、信仰に根ざした明確なビジョン共有し、良き施策を見出していきたいと願っています。別紙をご覧ください。ご協力をお願いいたします。

葛藤しながら

こんなことを書き始めています。

張田 眞さんの投稿 2018年3月23日(金)

3月18日週報4面です

黙想と祈りの会より

先日、マタイ福音書9章、12年間も病のもとにあった女性が主イエスを見ると「この方の服に触れさえすればなおしてもらえる」と思って近寄って後ろから主イエスの服の房に触れると癒されたという物語を読みました。
 この婦人の信仰を軽く見積もったり、批判的に見る人もいます。日本的に言えば、お地蔵さんをさすれば病気が治るというような迷信に似ているからです。 しかし、マタイ福音書は、この女性の中に、信仰をみてとっており、それを描き出しています。
 関連して一つのことをご紹介します。
 イーヴァントという神学者がドイツにおられました。宗教改革者マルチン・ルターの研究者です。この方の書かれた書物の一つに、「ルターの信仰論」という小さな本があります。
 この書物は1940年といいますから、もう80年前に書かれた古い書物ですが、日本語に翻訳されていなす。翻訳されたのはドイツ語で書かれてから何十年も後のことでに、この書物の評価が高く、長く読まれ続けているということを示しています。
 この書物の中に、マルチン・ルターの有名な言葉を取り上げて、次のようなことが記されています。
 キリストのもとにある信仰者というのは、「罪人であり同時に義人」と言い表すことができる。それは、こういうことだ、と言うのです。
 神様との交わりについて、一般には、私たちの内に罪がもはや認められなくなった時に神との交わり、その恵みが私たちに開かれる、と思われている。反対に、罪が認められるところでは、恵みは失われている、と思われている。けれども、それは違う。そうではない。
 そうではなくて、人が失われた者であること、すなわち罪を認識し、汚れ、絶望している人間、まさにその人間に、神は近くいます。それが真実である。
 罪人であることを深く認める、そこに真実に信仰が生きるのだ、というのです。
 そのことをキリストは私たちに教え、ご自身を差し出していてくださる、そう記しています。
 12年間も病で苦しみ、汚れを身に負った婦人が、イエスさまの衣の房に触れました。イエスさまが聖なる方であり、神のものであられる。そのしるしに触れました。それをイエスさまは信仰であるとおっしゃる。あなたの信仰があなたを救ったと言われるのでした。
 ある人が、こんなことを言っています。「主イエスは、彼女の存在そものも、その生涯、そして、信仰、そのすべてを受けとめようとされる。ご自分の御手の上に、彼女を置く。ささやかな信仰、誤りもそこに宿っているであろう彼女の信仰をも、ご自分の御手の中にお包みになる。そして、ご自分の御手によって、その信仰を、また、彼女のすべてを、新しくされる。お救いになるのである。」

りんごの苗木を探して

「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える。」この有名な言葉は宗教改革者ルターの言葉とされてきました。不思議と勇気を与えてくれる言葉ですが、この言葉をめぐって書かれた書物「ルターのリンゴの木」です。

この本の著者は1931年生まれ、1974年から1996年までヴッパータール大学で組織神学と歴史神学を講じてこられた。本書が出版されたのが1994年(日本語訳は2015年)。退職してまもなく深刻な脳梗塞に倒れ(66歳か67歳のことであろう。)、身体にひどい麻痺が残って研究生活ができなくなったとのこと。翻訳者によると著者最後の著作ということになろうということでした。
なお、翻訳者があとがきで「著者の文章は、議論の筋道が錯綜している上、挿入文が多く、省略もかなりあって翻訳にあたって苦労も多かったので、途中非力をも顧みず翻訳し始めたことを後悔することもあったが・・・」と記しておられるが、そのご苦労が分かるような気がする。
加えて、19世紀のドイツ敬虔主義諸グループへの容赦ない言及は、ほとんど知識のない私の頭を悩ませている。ただ、この点については学ぶ機会や手立てがないので本書は良い勉強の機会にはなっている。
そのうち、読書レポートを書きたいと思う、けれどもいつになることやら。

今日届きました。しばらく前から私の思いの中でですが、ルターが語ったと伝えられる例の言葉、そのリンゴの苗木とは何を意味しているのかという関心がわき起こってきていたので、書名に惹かれて購入しました。自分の終末を身近に感じられるようになったから…

張田 眞さんの投稿 2018年3月10日(土)

2月18日の週報四面です

最近はすっかりiPadで聖書を読むようになりました。入院して以来のことです。口語訳聖書は多くありますが新共同訳聖書を読むことのできるアプリは少ないです。それでも、2つのアプリを見つけて使っています。そのうちの一つは、英語のテキストも並べて読むことができるようになっています。また、ドレという方の版画も見ることができます。もう一つのアプリは機械的な朗読ではありますが音声で聞くこともできます。右手しか動かせない私にはありがたいです。旧約聖書のヒブル語や新約聖書のギリシャ語のアプリもあり、簡単な辞書もついています。便利になりました。神学生の時代にiPadがあれば良かったのになあと思ったりもします。

さて、14日の黙想と祈りの会ではマタイによる福音書9章1ー8節を取り上げました。2節にイエス様のもとに運ばれてきた中風の男に「子よ、元気を出しなさい。」と語られたイエスさまのお言葉が記されています。「元気を出しなさい」という語は新約聖書に8回出てきますが、「勇気を出しなさい」という意味とともに、「喜びなさいbe good cheer」「しっかりしなさい」と訳されることもあります。心にとまりました。

牧師の宿題、その答え

2月7日(水)の聖書を読み祈る会ではマタイによる福音書9章9節から13節を取り上げて短く黙想をしました。
この箇所は徴税人であったマタイが主イエスの弟子とされた話です。黙想の後で、分かりにくかったことについて話し合いました。話題になったのは13節のイエスさまのお言葉です。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどう言う意味か、行って学びなさい。」とありますが、どこに「行って」学べば良いのか、イエスさまはどこに行くようにとお命じになっておられるのか分からないと言うことでした。
確かに不思議な言葉です。どこにいけば良いのか、放り出されたような思いにもなります。(なお、『』で引用されているのは旧約聖書ホセア書6章6節の言葉です。)
牧師の宿題になりました。調べました。結論から申し上げます。「行って」とは、マタイのように弟子となってイエスさまに伴って行くということのようです。
元の言葉を調べると、マタイに向かって語られた「わたしに従いなさい。」と、「行って」とが対応していることがわかります。
「従う」とはイエスさまと同じ道を辿るという語です。そして「行って」とは「伴って行く」という語です。ですからイエスさまと共に行くことによって学ぶことになると、イエスさまは私たちを招いてくださっていると受け取ることができます。あてもなくどこかに行くということではないですね。
なお、従うはακολουθεωアコルテオー行ってはπορεύομαιポリューオマイです。

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パイロット版を手にして

本日、Facebookに投稿した文章をここに載せます。なお、ハイム・ラビン著「ヘブライ語小史」の紹介を私の個人ブログに少しづつ投稿しています。下記に引用した一節が記載されている章にいたっています。バビロン捕囚が終わった時代までのヘブライ語の消息が取り上げられていました。

「ネヘミヤ記8章8節には、書記官エズラが水門の傍にある広場で律法の書を民の前で読んだ時、『彼らは神の律法の書を翻訳して(メフォラシュmephorash)解説を加え、朗読箇所の[意味を]理解させた』と記されている。『理解させた』とはレビ人たちが人々に与えた説明のことであり、『翻訳して』とは聖書がアラム語に訳されたことを意味している。ちなみに聖書のアラム語訳は「タルグム」と表されている。この翻訳は聖書のヘブライ語を理解することのできなかった帰還したばかりの捕囚民にとって必要なことであった。同時にペルシャ当局への公式声明という目的もあったと思われる。」
これはハイム・ラビンの「ヘブライ語小史」に記されている一節です(簡潔にするために少し省略しています)。なぜご紹介したかというと、北村牧師が聖書協会が新しく出版しようとしている新聖書のパイロット版を届けてくださり、読ませていただいてさまざまな感想を持ったのですが、そのうちの一つのことと関連して記憶にとどめたからです。
聖書は翻訳・解釈・説明と共に伝えられ、その力によって信仰共同体が育成されてきたと言えましょう。それはつまり、信仰共同体における翻訳・解釈・説明の積み重ねが聖書出版にいたるともいえましょう。果たして、私たちの教会に新しい聖書翻訳を生み出す力があったのかどうかが問われているとも言えましょう。後日落ち着いて、雑感をブログに書き込みたいと思っています。まずは北村牧師にお礼を申し上げるとともに、感想の一端をご紹介します。

East21Asiaの起こり

今週、報告書2つが同封された封筒がとどきました。報告書の一つは昨年開催された「第一〇回国際会議」報告ともう一つは同じく昨年開催のセムナン教会主催「第54回アンダーウッド学術講座」参加報告です。東京の教会青年たちの自主団体East21Asiaから送られてきました。

同団体はナグネ宣教師の働きによるソウルのセムナン教会とのつながりと交流のなかから生まれました。10数年前になりますが、同教会のアンダーウッド学術講座に日本から牧師数名と青年数名が招かれて参加しました。牧師は私と現札幌教会の米倉牧師他2名、そして、主題講演者の近藤勝彦東京神学大学教授(当時)も行ってくださいました。主題は「東アジアの平和」だったと思います。このテーマを中心にこの年から3年連続で同学術講座が開催され、日本からの参加者が増えていきました。中国からの参加者もありました。

大変大きな集会でしたが、準備と運営はセムナン教会の青年たちの手によってなされました。もともと青年たちのお祭りのような集会だったのですが、志を高くして国際的な講座に模様替えされたのでした。

この講座に触発されて、私も働きかけて日本の教会青年たちのEast21Asiaがつくられ、青年たちが責任を持って今日まで運営してきました。セムナン教会との交流も続けられています。日本の教会青年は大いに刺激を受け、また、セムナン教会の青年たちに刺激を与えるほどになっています。

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