機関紙原稿の下書きを推敲しました

超高齢化と5G回線時代の教会

2019年は5G回線活用元年になることでしょう。無線WiFiが飛躍的に向上するようです。思い起こせば私がインターネットに触れるようになったのは1995年、アナログの電話回線によってでした。それからわずか20数年後の今、光ファイバーや無線4G 回線により、インターネットによるコミュニケーションがPCやタブレット、スマホの進化と相まってたいへん身近なものになり、私たちの生活に無くてならないものとなっています。そして更に5G回線です。生活の仕方に大きな変化がもたらされようとしています。

私は比較的早くPCに慣れ親しむようになり、インターネットともお付き合いしてきました。教会では当初はメール利用やHPの作成表示程度でしたが、今はもっと手の込んだ幅広いものとなり、FacebookやTwitterなどのSNS,そしてブログ等を組み合わせて牧会伝道のためのツールとして活用する時代となりました。文字のみならず、画像や音声や動画も取り込むという次第です。米国のある教派では5G回線時代を見据えてのことでしょうかVRの活用も視野に入れているとのこと。私の想像をはるかに超えています。

余談ですが、私の祖父は伝道者でしたが電話が一般に普及し始めた頃、教会にも導入したらどうかという意見に反対して、「連絡すべきことがあれば訪問すべきである。教会では訪問が大事である。」と言って頑と拒否しました。今では笑い話ですが、しかし、インターネットに関してはどうでしょう。抵抗感と警戒感があってせいぜいHP程度にという教会が少なくないと思います。しかし、かつての電話と同様に好むと好まざるとに関わらず、インターネット環境とその運用は誰にとっても身近なものとなり、教会においても重要なツールとして用いられるようになっています。同時に、それはありとあらゆる情報が渦巻くネット社会の危うさを背負うということでもありますから賢さが求められますし、ある意味、従来の教会文化が変化することをも意味しています。

私がネットを牧会と伝道のツールとして有効活用したいと思い、その思いがかつてよりいっそう強くなったのは、一昨年、脳出血に伴って左半身麻痺となり身体的に不自由を抱えるようになったからでした。自由に動き回れないのです。それで、入院当初から今に至るまでネットとタブレットが主な情報の収集と発信、つまり外の世界との交流に無くてならないツールとなりました。これは特殊事情ではないと思います。超高齢化社会をむかえて、様々な事情で私のような生活を余儀なくされる方々が今よりも多くなることでありましょう。しかし、スマホやタブレットに慣れ親しむことができれば、インターネットによって交わりを結び、社会的な交流を保つことが可能です。教会員の高齢化が進んでいる教会においても同様で、教会の交わりが保たれます。そういうわけですから、超高齢化と5G回線時代に、教会生活に関して、また伝道の取り組みについて新たなあり方が模索されなければならないと思います。

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善き力に、われ囲まれ

D.ボンフェッファーの詩による讃美歌21-469)「善き力に、われ囲まれ」です。

1 善き力に われかこまれ、
守りなぐさめられて、
世の悩み 共にわかち、
新しい日を望もう。

2 過ぎた日々の 悩み重く
なお、のしかかるときも、
さわぎ立つ 心しずめ、
みむねにしたがいゆく。

3 たとい主から 差し出される
杯は苦くても、
恐れず、感謝をこめて、
愛する手から受けよう。

4 輝かせよ、主のともし火、
われらの闇の中に。
望みを主の手にゆだね、
来たるべき朝を待とう。

5 善き力に 守られつつ、
来たるべき時を待とう。
夜も朝もいつも神は
われらと共にいます。

ヤコブの手紙1章1ー2節を眺めてみると・・・新年のご挨拶にかえて

Twitter上で教会のアカウントからヤコブ書探索と題してシリーズでささやき始めています。ギリシャ語テキストを眺めて、そこに用いられている語句を観察してみようという試みです。ヤコブ書は旧約聖書以来の知恵文学の流れを汲んでおり、言葉の彩にその特徴があるように思われますので、それを探索していこうと、少しずつ少しづつツィートしながら取り組んでいます。

まだ1章2節途中です。

手紙の差出人はヤコブです。主の兄弟で、エルサレム教会の指導者の名前が冠されています。宛先は、各地に点在する諸教会、キリスト者の群れです。

最初の書き出しが新共同訳聖書では次のように翻訳されています。

1節)神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。2節)わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。

さてここにはどのような言葉の彩が見られるでしょうか。

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近況と今年の一つの抱負

昨年のクリスマス主日礼拝(23日)から年を越して昨日(3日)まで、葬儀があったり訪問したりと何かしらあったとは言え、特に忙しかったというわけではありませんが、今日の朝は疲れています。年末年始に姉(75歳)、娘(年齢不詳)、息子夫妻が来て滞在してくれたからでしょうか。嬉しい日々でしたが、多人数に慣れていなかったからでしょう。疲れました。
さて、今年の抱負というか、取り組みたいと思っていることの一つは、超高齢化社会を目前に、教会の比較的若いご老人がたをはじめ、皆さんにスマホとタブレットを用いてインターネットに馴染んでもらうための取り組みをしたいと思っています。
昨年の病と入院生活、その後、療養しつつ務めさせていただいているの日々の経験から、インターネットでの繋がりの重要なこと・その有用性に気づきました。ことに今年から無線wifiの5G回線が普及しはじめますので、有効活用の幅が大きく変化していくと思われます。
礼拝のliveと動画の配信はすでに試行錯誤中で取り組みはじめていますが、インターネット会議ならぬ集会の開催、プレゼンテーションアプリを用いてのチャット風または回覧風の聖書黙想会などが開催できたらと目論んでいます。
手始めに上手に情報共有ができるようにTwitterに慣れ親しんでいただこうかと考えています。
主イエス・キリストに招かれて繋がる交わりの豊かさが超高齢化時代にもますます広がって行くことを願っています。

聖書の言葉を囲む会話、その広がりを求めて

ツィッターtwitter に教会のアカウントを設けたことは先にご案内しました。アカウントは浜松元城教会(@motoshiro21614)です。

ツィートは「呟き」あるいは「ささやき」です。多くの人に、ことに女性に愛されている白百合という讃美歌がありますが、ご存知のように主イエス・キリストのご復活が記念され歌われています。「百合の花、百合の花ささやきぬ昔を」と繰り返して歌われますが、教会のtwitterではその「ささやき」に包まれて何かを呟くことができたら良いなと思っています。

事始めにシリーズ「ヤコブ書探索」ということで、ツィートを始めました。新約聖書のヤコブの手紙の大きな特徴は、翻訳では分かりずらいのですが、言葉の彩りの豊かさにあると言われます。たしかにそうだと思います。それで語句を眺めてみよう、少しでもその彩りに触れることができたらというのがシリーズ「ヤコブ書探索」です。果たして思惑通りに行くかどうか??

新年を迎えて次のようなツィートをしました。

使徒信条でクリスマスを想う

教会の壮年会(ダニエル会)と婦人会(エステル会)では例会の最初の数分を合同で行い、使徒信条を取り上げました。その関連で、ここに使徒信条の言葉をご紹介してクリスマスを記念することにいたします。

主は聖霊(せいれい)によりてやどり、
処女(おとめ)マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

上記は使徒信条の第二項で、御子の降誕と生涯について語られている箇所です。神の独り子が人となってこの地上を歩まれたことが記憶されています。その誕生については「聖霊により」「処女マリヤより」と言葉が重ねられて、受肉の神秘を詠い、その地上の歩みについては「ポンテオ・ピラトのもとに苦しもを受け」と語られて、苦しみを担われた御生涯を詠っています。
ローマ皇帝により帝国の片隅ユダヤの総督として遣わされていた一官吏に過ぎないピラトは、たまたまイエスさまの裁判を担当したが故にその不名誉が後世にまで知られることになりました。ピラトもその一人ですがローマ帝国の支配のもとで翻弄されたありとあらゆる人々に結ばれて、苦しみを担ってくださった神の独り子イエスさまの御生涯が記憶されています。
使徒信条の言葉を心に留めて、御子イエス・キリストの御降誕を記念したいと思います。

twitterアカウントを設けました

教会の交わりとその交わりが広がるようにと願って、twitterに教会のアカウントを設けました。牧師がツィートを発信し、リツィートやダイレクトメッセージに対応します。

アカウントは浜松元城教会(@motoshiro21614)です。フォローをしてくださると有難いです。Twitterはスマホで便利に使うことができます。

おいおいTwitterとの付き合い方、教会の交わりのための用い方など、ご紹介させていただきたいと願っています。

教会員限定で礼拝や集会の様子をライブでお伝えしたり、交流したりすることなどが可能になります。

 

幸せでない人のクリスマス

Twitterを良く利用するようになりました。使い慣れてくると有用な、あるいは興味深い、また、愉快な情報に接することができるようになります。

さきほど目にしたツイートは二つで、まったく無関係な別々のツイートですが、私の頭の中では一つのイメージとなって重なってきました。

一つは現役時代の山口百恵さんの言葉を写真とともに紹介しているツイートです。その言葉というのは『クリスマスも正月も嫌いです。 幸せな人と、そうでない人が、ハッキリ見える季節だから。』です。

賑やかで艶やかだからでしょうか、その陰でハッキリ見える、と言われたのですね。

もう一つは、米国長老教会のこれも写真付きで『Blue Christmas: ’Tis the season — for depression. bit.ly/2E65LI0 #PCUSA』と書かれたツイートです。

後者はHPの記事を参照するようにと誘っています。読んでみると、米国長老教会では少なからずの教会が聖夜に夜通し a blue Christmasという礼拝を行うそうです。礼拝といっても教会の一室が(もしかしたら礼拝堂なのかもしれません)ロウソクの光だけでかすかに灯され、カロルが静かに流れ、時々、聖書が朗読されます。来会者は黙して時を過ごし、身を置くことができます。

翌日米国長老教会はツィーターで、D.ボンフェッファーの残した言葉を紹介していました。紹介します。
“The celebration of Advent is possible only to those troubled in soul, who know themselves to be poor and imperfect, and who look forward to something greater to come.”
– Dietrich Bonhoeffer
アドヴェントの祝いは魂に困難を抱えている人々にふさわしい。彼らは貧しく不完全であることを知り、そして、大いなる祝い、その到来へと向かう。

教会でだけ経験することができるクリスマスらしいクリスマス、幸せでない人が集うことができるクリスマスです。

 

喜びを重ねる日々

25日の降誕日を待ちつつアドベントを過ごしています。この時期には教会でも家庭でも街でもクリスマスの喜びを祝うための準備をします。

ツリーを飾ったり、イルミネーションを灯すお家もありましょう。私の家ではささやかな飾りつけの一つですが、リビングの壁にツリーのような形をしたスペースを作ってクリスマスカードをきれいに貼りつけていきます。すでに数枚のカードが貼られています。毎年、多くの方々がカードを下さいますが、届くたびに送り主のことを思い、クリスマスの喜びを覚えて、一枚一枚壁に貼り付けていくのです。クリスマスになりますと、小さなカードに託された喜びがたくさん飾られて、喜びが大きく壁いっぱいになります。

アドベントはこのように、大きな喜びを待ちつつ、一日一日、喜びを重ねつつ時を過ごしますが、それは御国を待ちつつ歩む、主にある私たちの日々の歩みそのものでもありましょう。