喜びを重ねる日々

25日の降誕日を待ちつつアドベントを過ごしています。この時期には教会でも家庭でも街でもクリスマスの喜びを祝うための準備をします。

ツリーを飾ったり、イルミネーションを灯すお家もありましょう。私の家ではささやかな飾りつけの一つですが、リビングの壁にツリーのような形をしたスペースを作ってクリスマスカードをきれいに貼りつけていきます。すでに数枚のカードが貼られています。毎年、多くの方々がカードを下さいますが、届くたびに送り主のことを思い、クリスマスの喜びを覚えて、一枚一枚壁に貼り付けていくのです。クリスマスになりますと、小さなカードに託された喜びがたくさん飾られて、喜びが大きく壁いっぱいになります。

アドベントはこのように、大きな喜びを待ちつつ、一日一日、喜びを重ねつつ時を過ごしますが、それは御国を待ちつつ歩む、主にある私たちの日々の歩みそのものでもありましょう。

 

待つーLet it beあるがままにー

ビートルズを代表する曲の一つに「Let it beあるがままに」という曲があります。こんな話を聞いたことがあります。
 「Let it be」という言葉は主イエスの母マリアの「 Let it be to me according to your word.あなたのお言葉通りに、わたしの身に、そのままになりますように。」に由来しています。
 「苦しみや迷いの只中にいるときには 母マリアが現れて知恵ある言葉を掛けてくださる、『Let it be』と。暗闇に包まれているときにもマリアは私の目の前に現れて知恵ある言葉を掛けてくださる、『Let it be』と。雲に覆われた真っ暗な夜でも 私の上には光が射しこんで明日まで導いてくれる、『Let it be』。美しい調べに目が覚めると母マリアが現れて知恵ある言葉をかけてくださる、『Let it be』と。そう、いつか答えがわかる日が来る『Let it be』」
 この歌詞を書いたのはポール・マッカートニーです。ビートルズ最後のアルバムの中に納められています。
 メンバーの心はばらばらになってしまっていて、スタジオで曲を録音している最中にも言い争いが絶えなかったと言います。そんな夜、ポールは母親メアリー(マリアですね)の夢を見ました。母はポールが14歳の時に乳ガンで召されたそうです。ポールは母が語ってくれたイエスの母マリアの言葉を思いだし、現実を「あるがままに」受け止め、そして神の導きにゆだねて、新たな一歩を踏み出そうとします。
 教会とも聖書とも久しく離れていたポールが、母の夢をきっかけにして神を讃美する歌を書き上げたのでした。辛い現実を「あるがままに、Let it be」と受け止めること。そして神の導き、その時をを待つこと、それこそが、メンバーとのいさかいの中でポールに必要なことだったのかもしれません。

教会の暦

教会には独自の暦があります。それによると2018年は次週の主日25日が一年で最後の日曜日となり、12月2日(日)から待降節を迎えて、新しい年になります。

私たちの教会は教会の暦に緩やかに従う慣しになっています。日本キリスト教団の多くの教会は多少の強弱はありますが同様かと思います。

待降節(アドヴェント)に入るとクリスマスの季節になります。日本では商業優先で街々にはすでにクリスマスツリーが飾られていますが、欧米のように待降節になってから飾るのが本当です。

浜松元城教会も12月に入ってから飾り付けをいたします。

少年野球の思い出

姪の小学校5年生の次男が少年野球ののチームに入っていて、近々遠征して鎌ヶ谷球場で試合をするという話を聞きました。

私も小学校6年生の時に軟式野球をしていて当時住んでいた渋谷区の大会に出て優勝したことを思い出しました。第一回戦から勝ち進み、準々決勝は日曜日の午前中に設定されました。その日、母が日曜学校を休まないように、もしも休んで試合にいくなら「もううちの子ではない」と言って行かせてくれなかったのでした。

鬼のような顔でそう言われては行くわけにはいきません。日曜学校に出てから試合会場へと向かいましたが試合は終わっておりました。そのことを思い出したのでした。母は厳しかった。

 

驚いて、納得したこと

先週ツィッターを見ていて驚いたことがありました。東京工業大学で美学を講じておられる伊藤亜紗さんと言う方が、ご自分のゼミで学生たちと一緒に愛をテーマとして話し合い、エーリッヒ・フロムという人の「愛するということ(原題はThe Art of Loving で、日本語では『愛の技術』という副題を付して原意が分かるように配慮されています)を取り上げるとのこと。この本は私が20才前後の頃に、つまり40年以上前、いや50年近く前に話題になり、私も読みました。当時は恋愛結婚至上主義の風潮でしたが、その流れに竿をさすように著者は米国人であるにもかかわらず、見合結婚の勧めをされていました。その意味するところは、いっときの恋愛感情で結婚というゴールに至るのではなく、結婚は他者であるお互いの間柄に愛を育んでいくスタートであって、芸術家が芸術作品Artを丹念に作り上げるように、愛を育み、作り上げる技術を必要とする、と問いかけるのでした。
40年以上前に話題になった書物ですから「えっ!なぜ今?と驚かされたのです。著者の伊藤亜紗さんは美学を専門とする方ですが、身体論に結んで興味深い著作を著しておられます。「どもる体」は吃音と体について論じていました。今私が読んでいるのは「目の見えない人は世界をどう見ているか」です。視覚障害と体、つまり、目の見えない人が世界をどのように認識し、どのように関わって(見て)おられるのかを研究考察しています。読みやすく興味深い本です。美学というのは言葉にしにくいもの(代表的なものは美や芸術でしょう)を言葉にしようとする学問のようですが、目の見えない人を違う身体を持った人、すなわち自分はいつも自分にとっての当たり前を前提にして理解しようとして、その結果誤解し無理解でいてしまう他者、と表現しておられますが、その他者へと向かう目線と、理解しようとする取り組み、その姿勢、著者は愛が不可欠と感じておられるのでしょう。きっと。
愛は自分にとっての当たり前を排して、あるがままの他者へ近づく道であり、人と人と、つまり他者との交わりを作り上げていくものなのですね。Artとしての愛、なるほどと納得しました。

ナグネ宣教師への一つの応答

14、15日の二日間、日本キリスト教団派遣宣教師で韓国長老会神学大学校で教鞭をとっておられるナグネ(洛雲海)准教授を迎えて有意義な時を過ごすことができました。

ohn神学のことも話を聞くことができました。韓国のキリスト教事情を背景に生起した神学ムーブメントです。それは私たち日本基督教団の閉塞状況を克服するという観点からも有意義なムーブメントではないだろうかというのがナグネ宣教師のお考えでした。

詳しくここではご紹介できませんが、キリスト教界が一つの樹木であるとすれば、根を深く広くはり、枝を大きく広くのばして、生き生きと堂々とした大樹であるように、そのために神学が役割を果たし牽引しようとする神学ムーブメントのようです。

ohnとは韓国語で完全なとか、全体的・総体的なとか、丸く欠けのないと言った意味のようです。キリスト教界が神学的に、あるいは宣教論と実践において、ややもすると分裂し、それぞれに偏りを生じさせており、その多様性が必ずしも豊かであるとは言えず、硬直し枯渇しかねないという危惧があるわけですが、そうではなくてohnを目指して神学的な実のある対話、議論を喚起していこうということのようです。

大変なエネルギーを必要とすると思いますが、精力的に取り組もうとしています。現状は、その対話と議論の場、土俵作りですね、その段階のようです。なんだ、と思わないでください。土俵作りの議論も神学的に大変な作業だと思いますし、そこからすでにohn神学ムーブメントの重要な議論が始まっているとも言えましょう。

期待したいと思います。私は概ね賛同します。

 

10月14日(日)週報の4面です

日本基督教団総会(23ー25日)に向けて
ある日本の哲学者が朝日新聞のコラムに「民主主義の内在的欠陥ー同等の観念ー」という一文を寄せていました。「民主主義という政治体制は人はみな平等であるという原則の上に成り立っている。これは人類が勝ち取った誇るべき原則である。誰もが平等に尊重されねばならないという価値観もここから導き出される。」そう記して、
「だが民主主義における平等にはもう一つ別の側面がある。平等に与えられた権利にふさわしくあるよう、自らの言葉や考えを鍛え上げることが期待されるという側面である。」と述べています。
ハンナ・アレントを引用して、古代ギリシアの民主政を参照しながら平等と同等を区別し、後者の重要性を強調しておられるます。そして、「民主主義は民衆に、政治参加の権利を行使するにふさわしい水準の者どもと同等の存在になろうとすることを求める。だから民主主義社会では、教育による人物の涵養(かんよう)や報道による情報提供などの必要性を誰も否定しない。」と綴っておられます。もちろん、誰に対しても同等の水準を強要するというようなことがあってはなりません。人はそれぞれ違った賜物を与えられているからです。「しかし、それがことさらに求められる一群の人々がいる。それは政治家でである」と。
この同等の水準という要件がどのようにしたならば出来得る限り実現し、保たれるかを考えることは大切なことでありましょう。10日後に日本キリスト教団総会を控えていますが、教会政治においても同様で大事な指摘だと思いました。

台風24号による影響のこと

浜松では珍しいことですが今回は台風による影響を受けました。30日(日)夜、まさに暴風が吹き荒れました。またその影響で静岡県のみならず、東海地方広域にわたる停電が起き、4日現在、だいぶ復旧したとはいえ、完全復旧には至っていないようです。

下記に記しましたが、袋井教会の被害とその後の修繕のことが気になります。お祈りくださるとともに、お支えいただきたく存じます。

台風24号で被害を受けられた方々、そして諸教会、諸施設の皆様にお見舞い申し上げます。私どもの教会では礼拝堂のスレート瓦が何枚か飛び散ったのと、牧師館裏庭に大きな飛来物がありました。トタン屋根のようです。その付随物が牧師館の屋根などにぶつか…

浜松元城教会さんの投稿 2018年10月3日水曜日

「サタン、引き下がれ。」とペトロに

「サタン、引き下がれ。」と主はペトロに向かって言われました。マタイによる福音書16章23節です。先週の聖書黙想と祈りの会で読んだ箇所です。
サタンという語はアラム語の一方言に由来するそうです。告訴人、非難する者というのが素朴な意味で、悪魔あるいは神に敵対して人間を誘惑する者と説明されます。主イエスは父なる神のご意思であることを受け止めて、ご自身の受けるべき苦難と十字架のことついて、そしてご復活についてお話しになった時、ペトロは主イエスをわきにお連れして、いさめ始めたのでした。主イエスの前に立ちはだかり、その歩もうとされる方向を変えようとしたのでした。そのペトロを主は「サタン」と呼び、「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたのでした。
「引き下がれ」とは文字通りには「わたしの後ろにいなさい」です。そこは弟子の正位置です。主に伴わせていただくために、主イエスは私たちにも「引き下がれ」「わたしの後ろにいなさい」と仰ってくださいます。その言葉を幾たび聞かせていただいたことでしょうか。そしてこれからも繰り返し聞かせていただくことでありましょう。