アナニアとサフィアは偽り・・・

使徒言行録5章1−11節に悲しくも大切な物語が記されています。26日(水)の聖書を読み祈る会で学びました。どうぞ、聖書を開いてお読みになってみてください。興味深い、そして、誤解を生みやすい物語でもありますので、要点をちょっとだけ書かせてください。

二人の献金は多額だったようです。永井訳はペトロとサフィアのやり取りを文字通りに翻訳しています。「乃ちペテロ彼に答えたり。我にいえ、汝等はこれ程に地所を売りしや否や。乃ち彼いへり。然り、それ程なり」(8節)。「これ程に」とは 多くというニュアンスを含む語のようです。

他の人々の献げものと比べても決して劣る額ではなかった。いや、多かった。しかし、彼等はそれが全てですと偽ったというのです。「多く」でなければならないし、それが「全て」であるということにしておかねばならないという思いに駆られていたのでしょう。

ペトロは彼らにこう言っています。「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」(4節)。つまり、偽る必要は一つもなかった。自由が尊ばれていたということですね。

ですから、原始教会の富の共有(4章32ー35節)、すなわち皆が売って代金を持ち寄ったのは、自由な喜ばしい行為によっていたということでしょう。言い換えると、先週学んだのですが、「大きな恵み」への喜ばしい応答、リスポンスであった(⇨「『好意を』or『恵みを』?」をご覧くださる)。けれども、アナニアとサファアは違っていた。「ねばならない」という偽りの善に生きて、大きな恵みの前ではすでに倒れていたのだと言えましょう。

ペトロは大きな恵みのもとに立ち帰るようにと願っており、聖霊はアナニアがその名のように「主は恵み深い」ことを知り、サフィアもサファイヤのように麗しく「主が装ってくださっている」ことを味わい知るようにと願っておられたのだと思います。

この物語は、大きな恵みによって偽善が「倒れて(「伏して」の意もある)・・・葬られ」(5−6節、10−11節)、大きな恵みによって倒れた者も伏して(すなわち主と共に甦らされ、立ち上がらされて)神を仰ぐように。そのような祈り(それが教会の祈りだと思います)と共に綴られているように思われます。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です