なぜか長谷川保さんのことを思い出しました

エピソードの多い方ですが、故西村牧師が話してくださったことで、記憶にとまっていることが一つあります。なぜ、記憶から消えないのか。おそらく、信仰上の機微に関することがそこに含まれているからだと思います。

その話というのは、有料老人ホーム・エデンの園の開設にまつわることです。当時、まだ、有料老人ホームはどこにでもあるものではありませんでした。先進的で、かつ、大きな事業ですから、長谷川保さんはおおいに宣伝をされました。いたるところの教会で、機会あるごとに、入居を呼びかけておられました。その時の、売り文句の一つが「エデンの園で働いている人はみなクリスチャンです」でした。

そんなことはありませんから、西村牧師は親しみと込めて、もちろん尊敬の念をいだきながら、長谷川さんは「ほら吹き」なんだと言われたのでした。そして、長谷川さんは、ご自分のところ、つまり聖隷福祉事業団で働いている人たちは、皆キリスト者であると見なしていた、というのです。

奇妙なことで、普通は、変な話で、長谷川さんのキリスト教理解はおかしいということになるかも知れません。しかし、この「ほら吹き」エピソードには重要な事柄が内包されているように思うのです。

それは、私たちは隣人をどのように考え、その人をどのような人として見なしたら良いのかという課題と結びついているということです。長谷川さんは、洗礼を受けていない人でも、キリスト者であると言っておられるのではないと思います。そうではなくて、キリスト者でない人もキリスト者であるかのように接し、言葉を交わし、共に働いておられたということです。

押しつけがましいことをしていると批判する人もおられるかも知れませんが、押しつけているのではなくて、どの人も神に愛され、主イエスの恵みが及び、聖霊の祝福が届いている、そう信じたということです。そう信じることで何事かが起こるということを、心得ておられたのだと思います。

なぜ、長谷川さんのエピソードを思い出したかと言うと、今日(12日)のおとなの分級で、伝道は難しい、信仰のない人に、あるいは知的な障害を持っておられる方々に、聖書のことを伝えるのは至難の業である、という感想が語られました。そうだと思います。私もそう思います。それでです。

キリスト教学校で説教することがありますが、その時もそうです。聖書の言葉というのは、信仰者に、教会に向けて語られた信仰の言葉です。ですから、信仰のない人には接点がないように思われます。ある牧師は学校で「君たちは信仰がないから、今から話す聖書の話は分からないと思うけれども」と言って話しはじめるそうです。気持ちは分かります。

しかし、その至難の業、難しいことはどのようにしたら克服されるのか、巧みな話法が必要になるとか、信仰のない人にも分かるであろう範囲で話すしかないということでもないと思います。私は長谷川さんのように、あたかも、そこにはキリスト者がいるのだと思って、信じて、キリスト者に語りかけられている言葉を、キリスト者に語りかけるように語るということが大切で、そこに、信仰の言葉が通じる道が開かれていくのだろうと思うのです。

むやみに信仰の言葉を他の人に話すということではありません。そうではなくて、ここには救いに招かれ、聖霊が働きかけておられる方がいると信じるということです。未だキリスト者ではないけれども、キリストの眼差しのもとではすでにキリスト者なのだと思う心を持つということです。長谷川さんの「ほら吹き」エピソードから、考えさせられます。

*以上のようなことを書きましたが、念のために申します。だからと言って未受洗者への配餐をすべきということにはなりません。そのことについては、別の機会に書きたいと思います。