弟子とは

こどもの礼拝で取り上げられた今日(12日)の聖書の箇所は「大伝道命令」と呼ばれるマタイによる福音書28章で、主イエスのお言葉に「弟子とせよ」とありました。このお言葉によると、キリスト者は弟子ということになります。

ところが、私たちは、自分たちが弟子であるとの自覚は薄いのではないかと思います。そのことを真剣には考えたことがないかも知れません。なぜでしょうか。今日は、そのことを考えはじめる機会となりました。

自分でも考えてみたいと思いますが、教会でも皆さんとご一緒に「弟子であるとは」ということで考えてみたい、そう思いました。

思い起こすのは、もう30年以上前のことですが、ICUで教えておられた古屋先生が、「キリスト教」という名称には問題があると言われて、「キリスト道」が相応しいと仰ったことがありました。道としてのキリスト教です。そのことがいっとき話題となりましたが、それ以上のことにはならなかったと記憶しています。

道というと、習熟するとか、修行とか、生き方、ということを連想させるので、馴染みにくかったのかも知れません。しかし、道は弟子ということと結びつく言葉です。

そして、当時、「イエスに従う」という言葉は広く親しまれました。ことに神学者ボンフェッファ-の名前とともに思い起こされるのではないかと思います。十分に正しく理解されていたか、それは分かりませんが。

わたしは、今日からマルコ福音書の講解にもどりましたが、NTDのマルコ福音書の注解(E.シュバイツァーが書いたもので、1960年代に執筆されています)のキーワードは「イエスに従う」です。十字架に至るまで、というのが特徴となっています。しかし、マルコ福音書を読むと、弟子たちは十字架にまでは従い得ていません。それよりも、従ってきた女の弟子たちがかろうじて遠くから眺めていたということと、主イエスに従ってきた人ではない百人隊長(イエスを十字架に架けるために任務を遂行した人ですね)がそのとき信仰を告白したことを伝えています。十字架を見上げたということでありましょう。十字架は従うのではなく、見上げるものです。

さてさて、弟子であるとは如何なることでしょうか。主イエスの大伝道命令によると、弟子とすることと、洗礼を授けること、そして教えることとが並んで語られています。弟子であることの重要な要素は、洗礼を受けることと教えを守るということのようです。そのことを十分に考えてみる。それが課題となります。

今のところは、ここまでです。