ヨハネの洗礼とイエスの受洗(2/5週報4面より)

イエスの洗礼2

公現節は3人の博士の礼拝からはじまり、主イエスの受洗を記念します。そして、主のご生涯をたどりながら日々を過ごします。この公現節が満たされて受難節(今年は3月1日からです)、復活節(4月16日)を迎えることになります。

公生涯のはじめに主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったということには深い意味があります。そのことをご紹介したいと思います。

ヨハネはそれまでの預言者たちのように、道を備える人でした。人々に「悔い改めの洗礼」を受けて罪を清め、メシアの到来に備えるようにと語りました。その洗礼は準備であり、過渡的な手立てでした。
主は罪のない方でしたが、人々の列に加わりヨハネから洗礼をお受けになりました。ヨハネの洗礼を、価値あるものと認め、それが罪と悔い改めに関わるものとして受け入れておられます。

しかし、主がヨハネから洗礼をお受けになったとき、ヨハネの洗礼は、人間の備えを指し示すしるしから、神の働きの場所へと変えられました。聖霊が降り、「これはわたしの子」と天から声がありました。戴冠です。メシア(王であり救い主)であるこのお方とともに神の国はわたしたちのあいだに到来していることが示されたのでした。

このメシアは僕として来られました。支配する主人としてではなく、「すべての義を満たす」従順な僕です。主イエスは、ヨハネによって洗礼を受けることにより罪びとたちに連帯し、ご自分を重ね合わせ、罪びとの救いのために僕になられました。

主イエスの受洗は、主が罪の支配する場所に立ち、僕となり、死に至るまで従順に歩みながら、人間を奴隷にしている罪と立ち向かおうとしておられたことを示していたのでした。
そして、その僕でありメシアであられる主の歩みは十字架へといたり、その救いのプロセスが完成しました。十字架によって、罪の贖いをなしとげ、死によって死に打ち勝たれました。こうして、この世界に対する神の愛があますところなく現れ出ました。