神学用語ABC「贖罪」(3/5週報4面より)

「ほとんどすべての宗教が救いについて語るが、しかし贖罪(しょくざい)にあたる教義をもって救いへの不可欠の道となすわけではない。」(北森嘉蔵)

贖罪は救いへの道です。

ちなみに、日本語の<贖>は貝ヘンになっていますが、貝は古代の貨幣でしたので、代価を払うという意味になります。日本基督教団信仰告白は「御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまえり。」と詠っています。すなわち、わたしたちが罪の力の下に置かれ、罪の奴隷であったのに、キリストの十字架と復活の救いによって罪の力から解放され、キリストの恵みの力の下に生きる者とされたのでした。それが贖罪です。

このように、救いが贖罪という道を通る通ることによって到達されるところに、キリスト教的救済論の特質があります。

注意深く日本基督教団信仰告白を読みますと「(御子は)己を全き犠牲として神にささげ」とあります。御子の十字架は神への犠牲の献げものであると言い表されています。これは贖罪信仰の大切なポイントを示しています。

二つのことが記憶されています。一つは、人間の悲惨は究極的には神に対する罪にあり、神の怒りのもとにあるということです。二つは、神の怒りから罪人である人間を贖うために、神のひとり子が犠牲として神に捧げられたということです。

旧約聖書においては、人間の罪に対する神の怒りとさばきをなだめるために、人間のがわから祭司を通じて、やぎや小牛のような動物が犠牲として神にささげられました。人間が神にむかって代価を払ったのでした。

しかし、旧約から新約に移るとき、様相は一変しました。まず、神にささげられる犠牲はやぎや小牛ではなく、イエス・キリストであると告げられます。そして、キリストは神のひとり子であり、父と一つです。ですから、キリストの犠牲は神にとっては自己犠牲ということです。つまり、神は人間を救いへと入れるために、自己犠牲という代価を払ってくださったのでした。

聖書は、このように、神の自己犠牲による贖いこそ救いへの道であると伝えています。

私たちには、計り知ることのできない大きな恵みが与えられており、神の愛のもとにあるということを、心にきざみたいと願います。