直訳と意訳、「辺り」か「おられるところ」か。

「イエスのおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしたた。」(マルコ2章4節、新共同訳)。

ご存知の中風の人をイエスさまがお癒しになった。その人は4人の男に運ばれてきたという物語です。彼らは屋根をはいで床をつり降ろしたのでした。そこを新共同訳も口語訳も「イエスのおられる辺り」と翻訳しています。(口語訳です「イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。」)これは意訳です。ごく自然な意訳です。屋根をはがしてつりおろすのだから、場所を正確に特定することはできない。その辺りだろうと見当をつけて屋根をはがしたに違いないのです。しかし、直訳すると「イエスのおられるところ」です。

聖書はイエスのおられる辺りに床が降ろされたのではなく、イエスのおられるところに降ろされたと語っているのではないでしょうか。ピンポイントでイエスのおられるところに、床が降ろされたのか、おおよそその辺りに降ろされたのか、「辺り」と「おられるところ」では若干ニャンスが違います。

同じ中風の状態になったものとして、病床であれこれと思い乱れながら、いわば、その辺りを迷いつつ思いが行き来していた者にとっては、大きな違いを感じます。

ことに、イエスさまが「信仰」と言われたことと関連してかんがえてみると、イエスのおられるところに寝かせたままつり降ろした。(つり降ろす行為ではなく、「イエスのおられるところに」寝ている。そのようでった、あるいは、そのように配慮した)、それを信仰とお呼びになったのだと思うのです。見舞いにきてくれたN宣教師が神学校のK教授(長い入院生活の経験がおありです)の言葉を思い出して教えてくれました。それは「十字架というものは、ベッドの下にあるのだ。」です。意味深長な言葉です。