失われた動詞の態「中動態」

古典ギリシャ語(聖書のコイネーギリシャ語も同様ですが)には、動詞に能動態、受動態の他に一般に中動態と呼ばれている態がありました。(英語でmiddle voice)。能動でも受動でもない人間の動作の性格・有りようを表現します。

神学校でギリシャ語に触れ、今日まで聖書を読むために細々と学んできましたが、文法で中動態について納得のいく説明に出会ったことはありませんでした。謎の態でした。能動でも受動でもない、その中間という分けのわからない説明で自分を納得させていたのでした。

ところが、日本の新進気鋭の哲学者がこの中動態に関心を持ち、深く掘り下げて、言語を切り口に、近代の人間の思考や社会のあり方、文化についての「見直し」提言をなさっているのです。昨年世に出たその人の書物を知り、中動態につての関心を喚起させられました。

その本の紹介を少しずつこのブログでさせていただきながら、自分の頭を整理していきたいと考えています。

今のところ、漠然とした予感ですが、聖霊の働きに与る信仰についての表現(聖霊論的表現)を理解するために(聖書解釈に)重要な意味を持つだろうと思っています。ちなみに、今日(1月28日)の礼拝で読んでいただいた聖書の箇所に中動態が用いられていました。

ガラテアの信徒への手紙1章6節です。

新共同訳は

「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」

ギリシャ語は

Θαυμάζω(呆れ果てています) ὅτι(以下のことで)οὕτως(こんなにも)ταχέως (早く)μετατίθεσθε(離れて、乗り換えようとしている)ἀπὸ (から)τοῦ καλέσαντος(招いてくださった方) ὑμᾶς(あなたがたを) ἐν(in へ) χάριτι(恵み) χριστοῦ (キリストの)εἰς( ~に)ἕτερον(ほかの) εὐαγγέλιον·(福音)

μετατιθεσθεがμετατιθημι(to transfer)の中動態です。新共同訳は「(自分の意志で、自覚的に)離れて、乗り換えようとしている」と解しています。しかし、中動態を受け止めて訳すと(わけのわからないままに、取り込まれて)離れていっており、乗り換えている」となるのだと思います。