牧師の宿題、その答え

2月7日(水)の聖書を読み祈る会ではマタイによる福音書9章9節から13節を取り上げて短く黙想をしました。
この箇所は徴税人であったマタイが主イエスの弟子とされた話です。黙想の後で、分かりにくかったことについて話し合いました。話題になったのは13節のイエスさまのお言葉です。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどう言う意味か、行って学びなさい。」とありますが、どこに「行って」学べば良いのか、イエスさまはどこに行くようにとお命じになっておられるのか分からないと言うことでした。
確かに不思議な言葉です。どこにいけば良いのか、放り出されたような思いにもなります。(なお、『』で引用されているのは旧約聖書ホセア書6章6節の言葉です。)
牧師の宿題になりました。調べました。結論から申し上げます。「行って」とは、マタイのように弟子となってイエスさまに伴って行くということのようです。
元の言葉を調べると、マタイに向かって語られた「わたしに従いなさい。」と、「行って」とが対応していることがわかります。
「従う」とはイエスさまと同じ道を辿るという語です。そして「行って」とは「伴って行く」という語です。ですからイエスさまと共に行くことによって学ぶことになると、イエスさまは私たちを招いてくださっていると受け取ることができます。あてもなくどこかに行くということではないですね。
なお、従うはακολουθεωアコルテオー行ってはπορεύομαιポリューオマイです。


今回はこれで終わりません。さらに先に進みたいと思います。

「行って」と訳されているπορεύομαιポリューオマイですが、調べてみると、πειραペイラ(to traverse)という語から派生した動詞のmiddle voice中動態だそうです。

となると、13節はおおよそ次のように訳せば良いのではないかと思います。「私に伴われて行きなさい。そうして学びなさい。(私があなたとともに行こう。それであなたは学ぶことになる。)」

ホセア書の言葉(預言者の口を通して語られた神の言葉)をみにしみて学ぶようにとイエス様が働きかけてくださっており、私たちを弟子としてくださっているということでありましょう。

少しややっこ叱ったでしょうか。すみません。