3月18日週報4面です

黙想と祈りの会より

先日、マタイ福音書9章、12年間も病のもとにあった女性が主イエスを見ると「この方の服に触れさえすればなおしてもらえる」と思って近寄って後ろから主イエスの服の房に触れると癒されたという物語を読みました。
 この婦人の信仰を軽く見積もったり、批判的に見る人もいます。日本的に言えば、お地蔵さんをさすれば病気が治るというような迷信に似ているからです。 しかし、マタイ福音書は、この女性の中に、信仰をみてとっており、それを描き出しています。
 関連して一つのことをご紹介します。
 イーヴァントという神学者がドイツにおられました。宗教改革者マルチン・ルターの研究者です。この方の書かれた書物の一つに、「ルターの信仰論」という小さな本があります。
 この書物は1940年といいますから、もう80年前に書かれた古い書物ですが、日本語に翻訳されていなす。翻訳されたのはドイツ語で書かれてから何十年も後のことでに、この書物の評価が高く、長く読まれ続けているということを示しています。
 この書物の中に、マルチン・ルターの有名な言葉を取り上げて、次のようなことが記されています。
 キリストのもとにある信仰者というのは、「罪人であり同時に義人」と言い表すことができる。それは、こういうことだ、と言うのです。
 神様との交わりについて、一般には、私たちの内に罪がもはや認められなくなった時に神との交わり、その恵みが私たちに開かれる、と思われている。反対に、罪が認められるところでは、恵みは失われている、と思われている。けれども、それは違う。そうではない。
 そうではなくて、人が失われた者であること、すなわち罪を認識し、汚れ、絶望している人間、まさにその人間に、神は近くいます。それが真実である。
 罪人であることを深く認める、そこに真実に信仰が生きるのだ、というのです。
 そのことをキリストは私たちに教え、ご自身を差し出していてくださる、そう記しています。
 12年間も病で苦しみ、汚れを身に負った婦人が、イエスさまの衣の房に触れました。イエスさまが聖なる方であり、神のものであられる。そのしるしに触れました。それをイエスさまは信仰であるとおっしゃる。あなたの信仰があなたを救ったと言われるのでした。
 ある人が、こんなことを言っています。「主イエスは、彼女の存在そものも、その生涯、そして、信仰、そのすべてを受けとめようとされる。ご自分の御手の上に、彼女を置く。ささやかな信仰、誤りもそこに宿っているであろう彼女の信仰をも、ご自分の御手の中にお包みになる。そして、ご自分の御手によって、その信仰を、また、彼女のすべてを、新しくされる。お救いになるのである。」