敬老祝賀愛餐会によせて

父の口から出た言葉をふと思い出すことがあります。先週の金曜日の朝には「いつかはいくらでも休むことができる時が来る。」を思い出しました。
これは「休みもとらずに、なぜそんなに働き続けるのですか。」と尋ねた私への返事です。父は自分の仕事も人生も天職と受け取っていました。天職とは神様のcallingによってということです。父は人生の残酷さ、無常、儚さをもちろん味わい知っていました。先の言葉はその延長ともとれますが、そうではなくて「休む」には「安息」の意が込められていたと感じます。天職の先に安息が待っている。仕事を退いた後も天職としての人生がある。安息へと向かう人生を辿っているという自覚です。
水曜日に聖書黙想と祈りの会で読んだ箇所に、「わたしはあなたに天の国の鍵を与えよう。」と主がペトロに向かってお語りになった言葉が記されていました。天国の鍵とは神さまのご支配へと開く鍵です。神さまが御子を通して与えてくださった罪の赦しの恵みを喜び、分かつ務めを指しています。教会は罪の赦しを告げ、この地上のすべての人の歩みが安息へと向かうものとなるようにと祈ります。教会に招かれて、私たちの歩みも天職callingとされています。そうなのです。はい。