ヤコブの手紙1章1ー2節を眺めてみると・・・新年のご挨拶にかえて

Twitter上で教会のアカウントからヤコブ書探索と題してシリーズでささやき始めています。ギリシャ語テキストを眺めて、そこに用いられている語句を観察してみようという試みです。ヤコブ書は旧約聖書以来の知恵文学の流れを汲んでおり、言葉の彩にその特徴があるように思われますので、それを探索していこうと、少しずつ少しづつツィートしながら取り組んでいます。

まだ1章2節途中です。

手紙の差出人はヤコブです。主の兄弟で、エルサレム教会の指導者の名前が冠されています。宛先は、各地に点在する諸教会、キリスト者の群れです。

最初の書き出しが新共同訳聖書では次のように翻訳されています。

1節)神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。2節)わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。

さてここにはどのような言葉の彩が見られるでしょうか。

一つ一つの言葉を詮索してみると色々な発見がありますが、新年初めでもありますから、挨拶の言葉に着目し、1節と2節の繋がりに目をとめたいと思います。

χαιρειν(カイレイン)という語が挨拶の言葉です。一般に挨拶のときの決まり文句と考えられているので、「挨拶いたします」と素っ気なく翻訳されますが、2節に出てくる喜び(ギリシャ語でχαραカラ)と同じ語です。一方は不定詞、他方は名詞です。あえて訳すと「喜びがあるように」となります。わたしの好きな永井訳新契約聖書は「平安なれ」としています。

つまり、2節の「この上ない喜びと思いなさい。」は1節の「喜びがあるように」「平安なれ」という挨拶の語りかけ(祝福の言葉)に先導され、結ばれています。

ついでにご紹介しますと、この喜びの調べは宛先の諸教会を表現している「離散している」「十二部族」という語に隠れ潜んでいます。

「十二部族」という言い方は、まことのイスラエル(神の民)、神が治めたもう民という意味です。神に守られて祝福されている「族」(永井訳)ということです。この族と訳される語はギリシャ語でφυλη(フゥレー)、で、φύω(フゥオー、発芽する、発育する)に由来しています。

そして、「離散している」という語の持つイメージと結ばれています。それはよく耳にしますがディアスポラ διασποραです。異邦の地に移されて(διασπείρω ディアスペイローされた)広範囲に点在する民を指しています。この語はσπείρω(スペイロー)種を蒔く-散らす-)という語から組み立てられています。

ですから異邦の地に寂しく心細く点在する教会は、しかし、神が治めておられ、種が蒔かれるがごとくに蒔かれ、そこに発芽し、発育している族なのであるという語りかけ、喜びの調べが含蓄されているのです。その調べと相まって挨拶と祝福の言葉があり、2節の勧めの言葉へとつながっています。

2019年、「喜びがあるように」「平安あれ」と、ヤコブ書の挨拶の言葉にあわせてご挨拶申し上げます。


追加です。

もしかしたら唐突な言葉だなあと感じられるかもしれませんが、2節を眺めてみましょう。

語順ですが、原文では「この上ない喜びχαράと思いなさい」が最初に来ています。これは先に書いたように、直前の1-1の「χαιρειν(喜びをがあるように)」との挨拶に先導されて語られています。そして、その次に「わたしの兄弟たちよ」「いろいろな試練に出会う時は」と続きます。

2節最初の「この上ない喜びχαράと思いなさい」は翻訳が難しいと思います。試練を無上の喜びと受け止め、気丈に生きよということではないでしょう。それではどういうことでしょうか。

そのことを考える前に「試練」πειρασμός(ペイラスモス)という語に着目しましょう。これは骨身にこたえるような経験を伴う試み、誘い、鍛錬、挑発、逆境などを意味しています。そして「さまざまなποικιλοις試練」とありますから、ここでは試練が具体的に特定れていません。さまざまな、ありとあらゆる試練です。

興味深いのは「 出会う(περιπίπτωペリピプトー)時には」と訳されている言葉です。それは「降りかかる」「襲う」「覆う」という語です。大きな鳥が獲物を捕まえようと急降下し、羽を広げて襲いかかってくる、そんなイメージを連想させます。。そして火事が起こると火の粉が飛び散るように、ここも、あそこも、向こうも、あちこちが試練で覆われる。そんなイメージを感じさせます。試練とはそのようでありましょう。

只事ではありません。しかし、その時、訳しにくいのですが、「この上ない喜びと思いなさい」と勧められているのです。「この上ない」は試練にまさっている。つまり試練がどれだけのことであろうとも喜びのほうが上をいっており、それらを覆う、漏れなく覆うという意味です。それがこの上ないと訳されるπας(全て、ことごとく)の意味しているところです。そう思われます。喜びが上をいき、試練を覆うということです。

そして「思いなさい」です。「思いなさい」と訳されているηγησασθεヘゲーサステですが、この語はάγω導くの中動態命令法です。今話題になっている中動態です。哲学者國分功一郎氏の「中動態の世界」を読んで刺激を受けて、中動態についての理解を深めることができましたが、この動詞のvoice態はどのような事態を言い表しているのか。結論から言うと、「καρα喜びへと導かれよ」「喜びにまみえよ」と訳せば良いと思われます。こういうことです。喜びを携えて近くにいてくださる方、その励ましと慰めに接して、喜びへと導かれよということです。「味わうように」と言っても良いかもしれません。1節のχαιρειν「喜びがあるように」「平安なれ」との祝福の挨拶無くして理解することはできません。

ちなみに、ヤコブ書は祈ることの勧めで終っています。5章13節以下です。

13節)あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。
14節)あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。(以下省略します)

初めと終わりが呼応しています。

つづく)

第2回、ヤコブ書1章2〜4節のまとめ(その1)試練と試されること、そして忍耐。