ヤコブ書1章2〜4節のまとめ(その1)試練と試されること、そして忍耐。

Twitter上でのシリーズ・ヤコブ書探索がやっと1章の4節までたどり着いたので、「まとめ」の第2回目として3-4節を一文にしようと考えましたが長くなりそうなので、前節との繋がりを考慮して2ー4節とし、2度に分けることにしました。

☆ 過去の投稿

第1回、1章1,2節を眺めてみると


3、4節は明らかに一息で綴られており、2節の「試練をこの上ない喜びと思いなさい」(新共同訳)との意味深長な勧め、その真相へと道案内しています。

しかし、十全に日本語に訳出することは難しいだろうなと思わされます。語の持つイメージや、それらの巧みな組み合わせによって文章が綴られているからです。そのことを申し上げた上で、二つの翻訳をご紹介します。

最初は新共同訳聖書です。

2 節) わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。
3節) 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。
4節) あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります

スッキリした立派な日本語です、力のこもった勧告となっていますが、スッキリしすぎているように思われます。

次に永井直治訳「新契約聖書」です。これは可能な限りの直訳で、テキストが醸し出す香りを聞くことができるようにとの思いと労とが注がれています。

2節)我が兄弟よ。汝等さまざまの試みに陥るとき、すべてこれを喜びと勘ふべし。
3節)[これ]汝等の信仰の 験(ためし)は、耐え忍を醸すことを知ればなり。
4節)されば汝等の完く且つ圓(つぶら)にして、少しも缺くるところなき者たらんために、耐え忍びをして完く働かしめよ。

永井訳は2節と3、4節との関連をよく訳出しています。また、直訳を試みているのでよく似た語であっても原文に異なった語が用いられている場合は訳語を変えています。同時に、訳語が十分に適切かどうかは別として、原文に記載されている語をくまなく拾い上げています。大変な労作だと思います。

さて、それではいよいよ3節に足を踏み入ることにしましょう。(日本語テキストとしては永井訳を参照します。)

「[これ]汝等の信仰の 験(ためし)は、耐え忍を醸すことを知ればなり。」

です。[これ]は訳者が補って加えた言葉です。原文の語順は、すみませんギリシャ語を訳語の直後に直に書き込みます。①「(汝等は←筆者の補足)知ればなり。」γινώσκοντες ②「汝等の信仰の験は」ὅτι τὸ δοκίμιον ὑμῶν τῆς πίστεως ③「耐え忍を醸すことを」κατεργάζεται ὑπομονήν.です。

①は、理解を共有し、同じ思いになって、同じところに立って欲しいとの願いが込められているように思われます。知るとは経験的に知っているということです。②は属格の二つの名詞(「あなたがたの」と「信仰の」の二つです)の並び方がが微妙で、解釈の分かれるところでありましょう。

いくつかの翻訳の可能性を下記にご紹介します。

1、(試練と共に)あなたがたの信仰が試されることで、

2、(試練と共に)信仰があなたがたを試すことによって、

3、(試練すなわち)あなたがたの信仰の験しは、

4、あなたがたが受ける試練は信仰の験 しであって、

以上でしょうか。

なお、験(ためし)と訳されているδοκιμμιον(ドキミオン)は2節で試練と訳されているπειρασμός(ペイラスモス)とは違うニュアンスの語で、何か良い含みをもって行われる試験、試み、検査です。裁きと言っても良いかも知れません。その試みは信頼に足るもの、値高いものです。

あらゆる試練、それ自身がδοκιμειν験(ためし)であるということではないでしょう。試練のさなかに別の何かが 験(ためし)として働くということだと思います。

次に③ですが、その験(ためし)が忍耐υπομονή(ヒュポモネー)を醸すκατεργάζεται(カテルガゼタイ)と語られています。

ここで「忍耐」と訳されているυπομονή は(下にυπό +留まるμένω )の名詞です。下に留まり続ける(耐え忍ぶ、精励する)ことができるということでしょう。行爲を示す名詞ではなく状態を表現している名詞のように思われます。

「醸す」と訳されているκατεργάζεταιは3人称の動詞であることを表しておりκατεργάζομαι カテルガゾマイ(「成し遂げられる」「達成される」という含みを持つ)の3人称単数の動詞です。この語はκατά +εργάζομαι (行うという動詞έργω?の中動態)が元になって組み立てられている動詞です。中動態であることを受けとめると、「生じる」(新共同訳)も良い訳かも知れません。

今回はここまでにいたします。細かなことに触れながら長い文になってしまいましたが、ヤコブ書の文章は表現が細やかであるということに気づいていただけたら嬉しいです。

また、ヤコブ書というとパウロ書簡とは違って、あるいはパウロの信仰義認に反対して行為による義認を説いていると薄っぺらく判断・批判されがちですが、必ずしもそうではないということが分かっていただけるのではないかと思います。

次回は残る4節を取り上げます。下記をクリックしてください。

1章2〜4節のまとめ(その2)です。