第3回原稿下書きです/私の仕事はボゥ〜としていること

私の仕事はボゥ〜としていること

『ボゥ〜と生きてるんじゃねえよ!』と誰かに怒鳴られそうですが、牧師が仕事をしている時は周の人からはボゥ〜としているように見える、そんな時が案外多いのではないでしょうか。
結婚してまもない頃、まだ20代後半でしたが、同じ町のずっと先輩の牧師先生が私たち夫婦に「牧師がボゥ〜としている時は仕事をしているのだから『あなたー、ボゥ〜としてないで、何々してちょうだーい!』などと言って邪魔をしてはいけませんよ」と仰ってくださいました。「聖書の言葉を思いめぐらし、教会のことや社会のあれやこれやのことについて考え、また祈りつつ説教の準備をしていたりしているのだから。」と。確かに読書することを含めて私もそのような時を過ごします。そして、集中すると時間が経つのを忘れてしまうこともあります。その時、周囲の人からはボゥ〜としているように見えるのではないでしょうか。
余談ですが、あの牧師先生の言葉を聞いた時、根っからボゥ〜っと生きている私は「我が意を得たり」という思いになりました。しかし、もしも、その先生が私のことをよくご存知であればきっと違った表現で仰ってくださったことでありましょう(笑)。良いか悪いか分かりませんが、有難いことにその時以來、ボゥ〜としていてもめったに邪魔されることはありません。ところが、ところが、その時間をこともあろうに、自分が放棄してしまう。そこに留まり続けることが必ずしもできるわけではないのです。いたずらに多くのことに思い悩み、心を乱しており、何かを急いで処理しなければならないと駆り立てられる。ルカ福音書10章に出てくる姉マルタが顔を出します。そして、牧師の肝心な仕事にたどり着かないのです。そうです。私たちはマルタの時間に慣れ親しみすぎているのです。

私は一昨年病気をして以後、ボゥ〜とする時間がさらに増えました。まだ若いつもりでいましたが、高齢者の仲間に入れていただいたということもあるのでしょう。しかし、それは特権でもあります。何かを処理するための時間とは違う時間が与えられているからです。
聖書の言葉に聞き、聖書が開かれるのを待つことができる時間です。主イエスの足下に座って、聞きいっていた妹マリアの時間と言えば良いでしょうか。それはいつ終わるかわかりません。きっと神さまがみ言葉を我が内に開いてくださる。その時それは閉じられることでありましょう。

二つの時間を生きるために

私たちにはマルタの時間が与えられているだけではありません。マリアの時間も与えられています。二つが編みこまれているのではないでしょうか。
これも余談ですが、私が最近ボゥ〜としている時に側にあるのはタブレットです。商品名を出して申し訳ありませんがApple社製ののiPadです。長時間同じ姿勢でいることが難しいので、どこにいても側に置いておけて、迅速に起動し、仕事の多くをまかなうことが出来るので重宝しています。教会HPの更新はもちろん、インターネットを使って種々な連絡にあたったり、時にはネット会議にも出席します。文章や説教原稿を書くこともできます。この原稿はgoogleドキュメントを開き、液晶キーボードや、音声入力を用いて書き込んでいます。
最近の楽しみの一つはiPadを使っての聖書の味読です。旧約聖書と新約聖書を原語で読むことができる無料の聖書アプリがあります。簡易で気の利いたヘブル語とギリシャ語の辞書が付いています。それを使ってヤコブの手紙を味読しています。味読と言っても語句をゆったりと眺めて観察するだけのことです。ヤコブの手紙はそのような味読に適しているように思われます。観察経過はメモ代わりにTwitterに投稿します。誰かに読んでもらうためではありません。読まれても良いのですが、あくまでも自分のためのメモです。その時はiPadの画面半分には聖書アプリが、別の半分にはTwitterが動いているので、聖書アプリを眺めながらTwitterにメモを書き込んで投稿します。そして、区切の良いところで立ち止まり、一区切りのまとめの文章を書いて自分のブログに載せるようにしています。それを楽しんでくださっているかどうかは分かりませんが、教会の方々が覗いてくださっています。遅々たる歩みですが、味読に取組んでみるといろいろな発見があり、思い巡らしに誘われます。楽しいものです(もちろん、時には苦しいこともあります)。一例ですが1章5節に「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。」とあります。「惜しみなく」と訳されているのはαπλωςです。その語の根にはπλεκω(編む)を観察することができます。「編む」と訳されるπλέκωは新約聖書に3回だけ、マタイ27章29節、マルコ15章17節、ヨハネ19章2節に用いられており、いずれも荊で冠が「編まれた」ことを伝えています。十字架上の主イエスを仰ぎつつ「惜しみなくとがめだてしないで」という言葉を思い巡らすことになりました。ついでに、もう一つご紹介します。この手紙は「離散している十二部族の人たちに」(1章1節)宛てられていますが、この言い回しは著者の教会についての自己理解と受けとめて良いように思われます。その語を観察すると興味深いことに種まきと発芽と成長のイメージが浮かび上がってきます。「離散」はディアスポラです。それはσπείρω(スペイロー/種を蒔く、散らす)という語から組み立てられています。また「十二部族」の「族」はφύω(発芽する、発育する)に由来する語です。ですから遠くに散らされて点在し、何やら試練にも遭遇している教会ですが、神の民としてみ言葉の種が蒔かれて発芽し、成長している。ヤコブの手紙はそのプロセスに着目し、それをεργον(働く)こととして表現し受けとめているように思われます。私たちがまず働くのではありません。働きに与り、試練の中にあってその下に留まり続けて(忍耐して)その働きの成就を待ちます。
このように語句の詮索をタブレットで楽しみつつ、ボゥ〜としている次第です。それは大事なそして楽しい私の仕事となっています。

マリアの時間を共有しましょう

さて、前回記したことですが、Twitterを介しての聖書黙想のことです。タブレットでもスマホでも良いのですが、どなたかネット上に(ブログやHPに)テキストを表示してくださって、Twitter経由でそれを読むことができ,,更に牧師がこれもTwitter経由でテキストについての必要最小限の情報や関連する教理的事柄についての解説を提供してくださり、黙想(聖書を囲む会話)の進行役を担当してくだされば、参加者は忙しい生活の中にあっても、教会の兄弟姉妹と共にボゥ〜とする幸いを分かちあうことができます。そして、それは聖書が開かれるのを待つ新たな時間の始まりとなりましょう。

少し技術的なことになりますが、説明を加えさせていただきます。今申しましたTwitterを介しての聖書黙想では、Twitterが会話の場(集会場)となり、ブログ記事や画像や動画を組み合わせて用いることによって、それらがいわば集会の中で補助的に用いられる黒板やプロジェクターのような役割を果たすことになります。もちろん、すでにネット上に存在する素材を用いることもできます。大げさな言い方になりますが、広大なインターネット世界の中に、聖書を囲む会話の場が生まれ、そのためのネットワークがささやかであっても編みこまれることになります。それは聖書の言葉を囲む喜ばしい交わりです。

「超高齢化と5G回線時代の教会」と題してまとまりのない話を3回続けて書かせていただきました。IT(インフォメーション・テクノロジー)の加速度的な発達とそれに伴う社会の変化に私たちは取り残されそうですが、好むと好まざるとに関わらず、私たちの身近な現実となっています。そして忘れてならないことは、ITはマルタの時間のためにだけ存在しているわけではないということです。ITはコミュニケーションのためのツールであって、マルタ専用ではありません。もしもそうであれば、ITの更なる発達は人間の非人間化を促進し、人間を機械のごとくに取り込むだけとなりましょう。繰り返しますが、私たちは二つの時間を生きています。マリアの時間のためにITを用いたいというのが私の提案です。使い始めると、きっとさらに良い用い方がわかってくるに違いありません。そして、それは教会員の高齢化が進む教会の交わりのあり方を見直す良い機会を提供してくれているようにも思われます。