5月号原稿を書き終えました

ちょっと変てこりんの文章ですが、考えていること、取り組もうとしていることについて書きました。


SNSのツィッターを介しての聖書黙想の集い

教会の交わりにおけるネットワークの回復と構築を願って

教会員の高齢化と5G回線時代という観点から、教会の交わりのためにSNSを活用できないだろうかという提案をさせていただいています。具体的にはツィッターを介しての聖書黙想の集いです。まだ試行錯誤中ですが、今回はそのことについて少しくご紹介させていただきます。

これには2つの特徴があります。一つは①インターネットを用いること、そして、もう一つは②聖書を読んで会話を交わしつつ聖書に聞くということです。

①ー1、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)とは

周知のことですが、あえて説明させていただきます。10数年前に初めてこの言葉を目にした時、何のことかよく分かりませんでした。けれども、今考えてみると、当時既にそれが何かを認識しないままにある種のSNSに慣れ親しんでいました。SNSはおよそ次のように定義されるようです。「人と人との日々の関係をインターネットを使って補助するコミュニケーション・サービス」です。

当初は、会員しか読み書きできないブログ(チャットやmixi)や掲示板のサービスがそれに該当しました。それらはSNSという語が行き渡る前から知られ、使われていました。この初期のSNSは参加者の匿名性を重視していました。ところが、ご存知のように、近年のFacebookTwitterのようなSNSは参加者個人を明確にしたうえで、コミュニケーションが行われるようになっています。そして爆発的に利用者が増えました。

ある社会に属する個人と個人,個人と集団,集団と集団などの関係のありかたを示す言葉だったソーシャルネットワークという語がもちいられて、インターネット上でネットワークを構築するサービスとしてのSNSが登場し,ウェッブサイトをコミュニティーとして機能させる動きが加速されてきたわけです。そして、SNSを介して人が社会と結ばれるという時代になりました。SNSを抜きにしては現代社会は成り立っていないと言えましょう。

①ー2、なぜ用いるのか

一言で申しますと、教会における交わりのあり用が変化し希薄化してきており、それに対応できる可能性が補助的にではありますがSNS利用にはありそうだからです。(可能性は未知ですが、利用しながら更なる使い道が分かってくるはずです。)

教会の交わりのあり用の変化については申し上げる必要もありませんが、わたしが体験的に感じてきたことをいくつか箇条書きします。

1、家庭集会の激減。古い話になりますが、1970年を境にそれまで盛んに行われてきた家庭集会が激減しました。家庭集会は教会員とその家族、また周囲の人々を結ぶネットワークでした。核家族化、そして住宅事情の変化や生活の仕方の多様化などが激減の背景として考えられます。そして、家庭集会に代わるネットワークは今日に至るまで生み出されていないように思われます。

2、離散。教会から遠く離れて離散状態にある方々が増えました。転勤や留学などで海外に居住することもありましょう。遠くに住んでいても教会に通うことができれば幸いですが、高齢化、病気、家族の介護、多忙などの事情で集うことのできない人が多くなりました。高齢化は顕著な変化をもたらしています。せめて礼拝にはということで送迎などの工夫がなされてきましたが、その工夫も継続することは容易ではありません。「仕方ないね」と無念が呟かれているのが現状ではないでしょうか。加えて、高齢化と人口減少の進む地方では無牧であったり存続が困難な状態にある教会も少なくありません。遣わされている教師は経済的な困難と孤立感を味わいなが歯を食いしばって頑張っています。高齢者が多いわけですが教会員も同様です。

3、分断。遠くに住んでいても、近くの教会に連なることができれば良いのでしょうが、ままならない諸々の教会事情を抱えています。理由はキリスト教理解の多様化と混乱、霊性(あえて信仰者のOSと呼ばせていただきます)の変容・不具合です。そう表現させていただきます。近年の大きな特徴ではないかと思います。

これらの変化に対して手軽で効果的な特効薬はありません。小手先のことでは事足りません。教会における交わり、つまり霊的なネットワークの回復と構築を図っていかなければならないでしょう。焦らずに腰をすえてじっくりと取り組んでいくしかないように思われます。SNSは補助的にではありますがそのために役に立つと思います。

確認しておきたいこと

さて、Twitterを介しての聖書黙想の集いについてご紹介する前に、確認しておきたいことがあります。それは以下のことです。

1、教会の交わりのの中心は神の民が呼び集められる主日の礼拝・聖餐です。

2、そして、牧者と教会員相互の牧会、祈りと慰めと励ましによる交わり・集い・奉仕が伴います。

3、伝道はその営みと言葉(讃美と信仰の言い表し)とによってなされ、人々を神の民の交わりへと招きます。

4、このようにして教会は世に遣わされていますが、事の中心は聖霊の働きと聖書です。

以上のことを前提にして、一つの試みとして下記をお読みくださると有り難いです。

②インターネット上での教会の集いBM on Twitter

この集いはBM on Twitterと名付けられています。まだ試行錯誤中で教会の正式な集会とはなっていませんが、ごく僅かな人数で試行錯誤しながら実施しています。試行錯誤することなく道は開かれないでありましょう。BMとは自動車のことではなくて、バイブルリーディングのBとメディテーションのMです。B&Mですね。ただし、二つは別々のことではなくて一体です。聖書を読みつつ黙想へと促され、黙想しつつ聖書を辿ります。そのBMを、集会として行いますから共同聖書黙想ということになります。そして、ツィッターを利用するのでBM on Twitter というわけです。

この集いは、聖霊を求める祈りとともに聖書を読み、聖書に思いを集め、言葉を交わしつつ聖書を辿り、さらに自らが聖書の言葉へと結ばれ織り込まれることを願います。高原を散歩する旅人が野の草花に感動し心躍りつつ道草を楽しむようにそれがなされれば良いと思っています。私はそれを「聖書テキストを囲む会話」と呼ぶようにしています。井戸端会議ならぬ泉の広場での団らんです。不謹慎で語弊があるならばおゆるしください。聖書と心を交わし戯れる楽しい雑談でもあります。

そんな暇はない、と言われそうですが一箇所に集まってそれをなそうとすればいくら時間があっても足りないことでしょう。余程の暇人でなければお付き合いすることなどできません。ところが、SNSことにtwitterを介してならば、一箇所に一同が集う必要がありませんから、意外なことに、それが可能となります。しかも、普段、さまざまな事情で教会に集うことができない方々も参加していただけます。

さらに、この集いのために、あるいは集いを通して、インターネット上でさまざまな情報が共有されることとなります。例えば、私はBM on Twitterというサイト(ホームページ)を立ち上げました。そこには、BMで取り上げている聖書テキストとテキストについての必要最小限の情報を最初に載せます。また、途中で提出される問いに対してそのつど(直ちにというわけではありませんが)答えることができます。そこにはテキストに関することや関連する教理的神学的な解説、また教会生活の指針などが含まれます。それをサイトに表示し、ツィートのやり取り(会話)の中に折り込んでお知らせすることになります。BMの進行状況や進行役からのお知らせなども載ります。BMのための掲示板のようなものです。

ツィートをたどる

ところで、個々のツィートですがリプライという機能を使ってツィートが結ばれ、関連づけて繋げがっていきます。ですから、後からそれまでのツィートをたどって一覧することができ、参加者は自分の都合のつく時間にそれを読むことができます。このようにして、忙しい生活をしている参加者もBM on Twitterの集いに加わることができます。ツィートして会話に参加したり、時には会話を読むだけであっても、黙想の輪に連なることができるわけです。

高原では、朝靄の中から小鳥たちのささやきが聞こえてくるとともに周囲の木々が姿を現し、少しずつ木洩れ日に接して新たな朝を迎えますが、BM on Twitterがそのようであればと願っています。