原稿「教団改革とは教会形成である」を提出

2020年1月号掲載予定の原稿です。
この原稿は過去のブログ記事「定義していこうと思う」の第二陣として書きました。また、本稿の主張を具現化するために聖書解釈と黙想のための「BMonTwitter」を、そして、教会について考えあうための「林檎の木会議」を提案しています。教会ホームページでご覧いただけます。

また、「教会建設を考える、その視点」「ナグネ宣教師への一つの応答」もお読みください。


教団改革とは教会形成である

公同教会とローカリティー(固有性)
ーさらなる歩みを願ってー

『瀕死の男が私たちの宿屋に運ばれてきました。傷は致命的と思われましが、運んできたあの御仁が夜通し介抱したので一命を取りとめたのでした。けれども、まだしばらくは安静と手当が必要なことは明らかでした。するとあの御仁は銀貨2枚を取り出し、私たちの主人に『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』と言って、その人を預けて旅を続けたのでした。
話を聞いてみると、この人は追いはぎに襲われて半殺しの目にあい道端に投げ捨てられていたのだそうです。良くあることで、誰も彼の運命に抗うことなどできません。二人の立派な紳士が通りかかったそうです。けれども、反対側を通って足早に去って行きました。私たちがその時そこに居合わせたとしても同じこと、誰も彼に寄り添う人はいません。ところがあの御仁は身にふりかかるであろう危険を顧みず、この男に近づき、彼の運命に抗って寄り添い、手当てを施し、自分のろばに乗せて宿屋まで運んで来たのでした。
そんなこんなで、私たちの主人があの御仁から介抱のなお必要なこの人を引き受けたので、この宿屋では、有り難いことに、ユダヤ人もサマリア人も身を寄せており、あの御仁の後押しによって自分たちの運命に抗って、皆が快癒へと身を向けることになったというわけです。』

宿屋である教会を思いつつ

お察しのように、これは良きサマリア人の譬(ルカ10章25ー37節)です。不十分ですがあえて宿屋の奉公人(仮定)による回想として語り直してみました。個人的な解釈、つまり聖書に聞きつつ辿ることをゆるされてきた私なりの読みが反映しています。共感して下さる方もおられれるでしょうし、自分なら違う風に語りなおすと仰る方もおられましょう。良くも悪くも個性的ですが、譬本体から遠く離れてはいないと思います。皆さんも良きサマリア人の譬話を語りなおしてみてください。持ち寄って分かち合うことができれば、きっと思いがけない発見をし、譬の語り拓くところが身近なものとなり、共有されることでしょう。
私は宿屋の奉公人の回想という仕方で語りなおしてみましたが、そうしたのは宿屋は私たち教会を指していると思わされたからです。そして、およそ人は言わばあの瀕死の男であり、通り過ぎて行った二人の紳士でもあり、宿屋の奉公人でもあり、愛において深く傷ついている人間です。ただ、あの瀕死の男のように私たちはあの御仁の尽力によって宿屋へと案内され、あるいは宿屋の奉公人のように宿屋の主人と共にあの御仁から瀕死の男を紹介されて互いに隣人となり、互いの運命に抗って、忍耐という賜物を与えられて、喜ばしく、新しい朝を待つようにと導かれているのではないかと思います。

私たちの宿屋で交わされている信仰の言葉

私たちは次のように讃美告白します。「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり。
神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。」
三位一体の神がほめ称えられます。公同の信仰と言えば良いでしょうか。そして、その救いの経綸に注目し、讃美と感謝の言葉が連なります。
ここには日本基督教団信仰告白の固有性(ローカリティー)が垣間見られます。『この変らざる恵みのうちに』という文言に導かれている最後のフレーズに注目してください。「罪の赦し」すなわち「義認と聖化」という救済の奥義が、聖霊による聖化(聖潔)にまで至って表現されています。故北森嘉藏先生からうかがったのですが、これは信仰告白制定作業に尽力している折に、旧メソジスト教会の流れにある先生方との協議折衝を経て得られたものだそうです。
メソジスト教会が大切にしてきた聖化が謳われています。同時に、『この変わらざる恵みのうちに』との文言によって宗教改革的福音理解が明確に自覚されています。これは日本基督教団信仰告白の芳醇で素晴らしいところだと思います。私はメシジストの流れを汲む、その中でもどちらかと言うとアルミニウス色の濃い伝道的(エヴァンジェルカル)な教派で信仰に導かれ、その固有性に培われ、敬意を抱きながらもそこから離れて教団に転入したのですが、そのように強く思わされています。それを公同性に結ばれた固有性(ローカリティー)と表現することができるかと思います。

かつて教団紛争の折に「教団信仰告白は作文に過ぎない」という言葉をよく耳にしました。しかし、単なる作文ではありません。旧教派で信仰を培われ、それぞれの固有性を身に帯びた者たちが神への共通の告白と讃美の言葉を紡ぎ出そうとする神学的な取り組みの結晶でありました。
そして、信仰告白が制定されると、日本基督教団は感謝して「公同教会の交わりに入れり」と表明しました。それは、日本基督教団がもはや旧教派の集合団体(あるいは宗教団体法のもとで作られた教団)ではなく文字通りに一つの教会(The United Church of Christ in Japan)であることの実体を備えていく基盤ができたことを意味していました。つまり、「聖なる公同の教会を信ず」(使徒信条)と告白讃美し、「聖なる公同の教会の交わり」の中にある感謝と喜びとともに、そのことを<常により鮮明に>自覚しつつ自家の信仰と職制を整え、神礼拝にあずかり、つまり福音宣教へと遣わされるべきこととなったのであります。そのはずであります。そして、その歩みが積み重ねられることで、日本基督教団という一つの教会が公同の教会に結ばれた固有のあり様(ローカリティー)を培い、世の光、地の塩として福音宣教に力強くあずかることとなるのであります。
しかし、御存知のように1969年に始まった教団紛争によって事態は大きく変わりました。「公同教会の交わりに入れり」との感謝と喜びはかき消され、自家の信仰と職制は風前の灯火となり、上記の意味での固有性(ローカリティー)を見失ってしまうという危機に直面することとなりました。そして、今なおその傷は癒えずに、引きずっているように思われます。

教団改革とは何か

本稿は本紙の昨年8月号に掲載された山口隆康先生の「連合総会を前に」の一文への応答です。その一文を読んで、私は直ちに教会HPの「牧師のブログ」に応答文を載せ、機関紙の編集に携わる広報委員会の皆さんにメールで配信し、読んでいただくようにしました。それは「教団改革は失敗したという認識に立つべきである」とのご主張に共鳴しつつ、山口先生と思いは同じと思いますが、なお継続して教団改革に取り組む道筋を求めたいとの思いからでした。
その中で「定義する」あるいは「定義し続ける」ということを申しました。それは、「教団改革」とは教団を定義し続けるということではないだろうかということです。本稿の言葉で言い直すと合同教会である日本基督教団の固有性(ローカリティー)すなわち生きた体を身に付けていくということです。「聖なる公同の教会の交わり」の中にある感謝と喜びとともに、そのことを<常により鮮明に>自覚しつつ自家の信仰と職制を整えて充実・共有し、神礼拝にあずかり、つまり宣教へと遣わされるということになります。つまり教団改革とは教団という固有の教会を建てていくということに他ならないのであります。そのためになすべきことは山ほどありましょう。
教会連合がそのために祈り、語り合い、取り組むところの交わりであり続けることを願っています。