ナグネ会世話人会

今月、募金箱をおいて、教会の皆さんにナグネ会への献金をお願いしていますが、急に、世話人会を開催することになり、東京に行ってきました。いくつかの懸案があり、意見交換をして、活動の方向を決めました。

その一つですが、何人かの方々に賛同人となっていただくようにお願いすることになりました。献金の呼びかけが、さらに広範なものとなるようにとの願いからです。事務の充実も課題となっています。

なお、HPとFacebookに「ナグネ宣教師からの便り」が掲載されています。

ナグネ会のHP

ナグネ会Facebook

耳なれない煩雑な話と、私たちの信仰

聖書について、私にはいささかややっこしいと感じる議論を耳にしました。そのことを少しご紹介し、私たちの信仰についてお話しいたします。ちょっと長くなるので、大変ですよ。

耳にしたのは、耳なれない話なのですが、聖書の著者問題です。著者問題といっても神ご自身が著者であるという信仰と、その信仰に立って、それでは、あれやこれやのことはどう考えたら良いのかという議論です。アメリカの福音派と呼ばれる教会の中で、さかんに議論されているようです。

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アナニアとサフィアは偽り・・・

使徒言行録5章1−11節に悲しくも大切な物語が記されています。26日(水)の聖書を読み祈る会で学びました。どうぞ、聖書を開いてお読みになってみてください。興味深い、そして、誤解を生みやすい物語でもありますので、要点をちょっとだけ書かせてください。

二人の献金は多額だったようです。永井訳はペトロとサフィアのやり取りを文字通りに翻訳しています。「乃ちペテロ彼に答えたり。我にいえ、汝等はこれ程に地所を売りしや否や。乃ち彼いへり。然り、それ程なり」(8節)。「これ程に」とは 多くというニュアンスを含む語のようです。

他の人々の献げものと比べても決して劣る額ではなかった。いや、多かった。しかし、彼等はそれが全てですと偽ったというのです。「多く」でなければならないし、それが「全て」であるということにしておかねばならないという思いに駆られていたのでしょう。

ペトロは彼らにこう言っています。「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」(4節)。つまり、偽る必要は一つもなかった。自由が尊ばれていたということですね。

ですから、原始教会の富の共有(4章32ー35節)、すなわち皆が売って代金を持ち寄ったのは、自由な喜ばしい行為によっていたということでしょう。言い換えると、先週学んだのですが、「大きな恵み」への喜ばしい応答、リスポンスであった(⇨「『好意を』or『恵みを』?」をご覧くださる)。けれども、アナニアとサファアは違っていた。「ねばならない」という偽りの善に生きて、大きな恵みの前ではすでに倒れていたのだと言えましょう。

ペトロは大きな恵みのもとに立ち帰るようにと願っており、聖霊はアナニアがその名のように「主は恵み深い」ことを知り、サフィアもサファイヤのように麗しく「主が装ってくださっている」ことを味わい知るようにと願っておられたのだと思います。

この物語は、大きな恵みによって偽善が「倒れて(「伏して」の意もある)・・・葬られ」(5−6節、10−11節)、大きな恵みによって倒れた者も伏して(すなわち主と共に甦らされ、立ち上がらされて)神を仰ぐように。そのような祈り(それが教会の祈りだと思います)と共に綴られているように思われます。

短気風?

メディア学者という肩書きのある人が、「ボブ・ディランは無礼で傲慢」と言うノーベル委員長の発言を十分確認しないで、それこそ「無礼で傲慢」と批判している記事がYahooに掲載されていました。

メディアの傾向なのでしょうか。短く、少しセンセーショナルな印象を与える言葉が掲げられます。それが独り歩きをして、発言の内容と趣旨とは違って、「無礼で傲慢」というレッテルを読む人の心に植えつけてしまうようです。

ショックだったのは、メディア学者と称される人が、そのレッテルを無批判に表現しているということでした。世の中に「短気」風が吹いていませんでしょうか。

ちなみに、このメディア学者の方はボブ・ディランの個性を評価し、尊重したいという趣旨で文章を綴っておられます。それは、ノーベル委員長の発言内容と変わりはなく、なんだ、同じことを言っておられるなと思わされたのでした。ですが、ユーモアという点で、ノーベル委員長のほうが一枚上と、私には感じられました。

短気風、言われる前に申しますが、我が家にも吹いています。いや、私のことです。気をつけましょう。

今週のカット

主日礼拝のご案内ページに貼り付けた写真は、ヴィッテンンベルク・シュタット教会(市教会)のステンドグラスです。4福音書記者が描かれています。

この教会で、ルターによって福音主義の信仰に基づいた礼拝が最初に行われたと言われています。

写真は、当時の二人の神学生と一緒に、1999年に訪れた時に撮りました。今月の31日は宗教改革記念日ですので、関係するカットを選んでいます。

おとなの分級の面白さ

主日礼拝前の30分間、こどもたちの教育に携わる先生たちのための教案誌から、その日の聖書箇所と、聖書箇所について解説されているテキスト研究を読んで、短く懇談をしています。

面白さが二つあると感じています。一つは、聖書の物語について、難しいですが、学ぶことができるということです。頭が混乱する時もありますが、それ自身、面白いことです。それ以外に二つ目のこととして、参加者が自由に感想を言いあえて、それを聞き合うことができるということです。

ときどき自分が考えていることと違うことを耳にすることがありますが、討論するわけではなく、感想を聞き合います。人それぞれで、自分とは生活環境や取り組んでいる仕事が違い、そこから発せられる言葉を聞き合うことは楽しいことです。

最後に、主の祈りをささげて終わります。

私は楽しんでいます。

今日は分区婦人修養会

10:00~14:30の予定で行われます。会場はお隣の遠州教会。講師は久万教会の小島誠志牧師。元日本キリスト教団議長です。

小島牧師とは約35年以上前にはじめてお会いしました。四国の高松でです。小島牧師はすぐに松山番町教会に転任されましたので、ほんの1,2年ほどのことでした。その後、親しくお会いするようになったのは、小島牧師が教団副議長になられたころからです。私は教団21という当時の比較的若手の牧師たちのグループに加わっており、小島議長誕生のためにほんの少しですが奔走しました。その仲間の中には、小島新議長を囲んで食事をした際に撮った記念写真を大切に飾っている者もいます(この人は現在、韓国ソウルにいます)。

そういえば、2001年ごろだったでしょうか、ソウルである会議に出席しておられた小島議長を、窮屈な宿泊場所から救出してソウルのホテルに案内し、日曜日にはイ牧師に相談していた段取りどおりに、セムナン教会で主日礼拝の説教をしていただいたことがありました。Y牧師、N宣教師(当時はまだ長老会神学大学院博士課程に在学中だった)と私の楽しい思い出になっています。ちなみに、その時、戦後はじめて日本人牧師がセムナン教会の説教壇に立たれたのでした。

今日は、その小島先生のお話を聞くことができます。楽しみです。

「好意を」or「恵みを」?

使徒言行録4章33節bを新共同訳聖書は「皆、人々から非常に好意を持たれていた。」と翻訳しています。ドン・ボスコ訳や、フランシスコ会訳も同様です。ちなみに元の文章は以下のとおりです。

χάρις  τε  μεγάλη  ἦν  ἐπὶ πάντας  αὐτούς.

口語訳と新改訳はχαρις を「好意」ではなく「恵み」と理解して、「大きな恵がそのすべての者の上にあった。」(新改訳)と翻訳しています。人々から好意を持たれたというのではなくて、きっと好意をもたれていたことでしょうが、使徒たちや信者たちの上に大きな恵があったと理解しています。

ちなみに、永井訳は33節から34節にかけて次のように訳しています。「また使徒等は大いなる力をもて、主イエスの甦りの証しを立てたれば、大いなる恵彼等すべての上にありき。そは彼等のうちには一人の乏しき者もなかりければなり。・・・」この翻訳が素晴らしいと私は思います。事柄の関連が素直に訳出されています。

予感

いつものことなのだが、週報にまちがいありでした。やっぱり。

次週予告の聖書箇所がルカによる福音書11章1−1節となっていました。正しくは1−4節なのです。次週の司式者のO姉が問い合わせてくださって判明しました。すでに礼拝のための準備を始めてくださっていたのでしょう。悩まれたでしょうね。1−1節などありえませんから。いやー、申し訳ないことでした。

この投稿のカテゴリーは「恥ずかしい話」ですが、たぶん、このカテゴリーがいちばん頻繁に登場することになると予感されます。

部屋の模様替え

牧師館は教会の裏、20台ほど入る駐車場(平日はお隣のK.K.鴻池に借りていただいています)の奥に、小道をはさんで建っています。私の部屋は二階、14畳ほどの広さです。教会に牧師室・事務所がないので執務室も兼ねています。

その自分の部屋ですが、先週からはじめた模様替えが、なかなか終わらないのです。机の配置はできましたが、物がまだきちっと整理できていません。机の上はもろもろの物が置かれており、それらを脇に追いやって、やっと座って作業をしているという状況です。

きっと、模様替えに終わりはないと思います。