挨拶を禁止すべきかどうか・・・

以下は、わたしの個人ブログに書き込んだことですが、思い出とともに、こんなことを考えさせられています。そのご紹介です。

ある都会のマンションで挨拶を禁止すべきかどうかということが問題・課題となっている。そんな新聞投稿を読みました。

考えてみると、見知らぬ人と挨拶を交わすのは、山登りのときだけになってしまった感があります。下界では挨拶しないのが常識で、下手に挨拶したらやっかいなことになるかも知れない、そんな様子が観察されます。

経済優先の近代社会の行き過ぎからくる貧しさだと思います。見知らぬ人であっても隣人として受けとめる社会を培っていかなければなりませんね。

思い出されるのはかつて三井銀行の社長をされたKさんのことです。わたしが洗礼をお授けし、葬儀の司式もさせていただいたのですが、この方は、本社の近くにある日比谷公園を散歩してから出勤しておられました。公園ではすれ違う人と挨拶をかわし、その中にはホームレスの人たちもおられて、みな顔見知りであったのだそうです。

互いに挨拶を交わすところから、少しずつ社会が良くなっていくと思わされます。すべり台社会と言われて久しいのですが、共に生きているのだということを受けとめ合う「場」を失ってはならないと思います。

戸惑うのは当然ですね

エレミヤ書を読んで(他の預言書も同じですが)、私たちが戸惑うことの一つは、時の流れに沿って預言の言葉が並べられていない、そう感じられることではないかと思います。

6日のおとなの分級では、新しい契約を告げる言葉(30、31章)が唐突に登場していると感じられて、そのことを披瀝してくださった方がおられました。そう感じられます。

近代人は時の経過にそって事柄を整理し、因果関係を理解しようとする習慣がありますが、預言者とその言葉を書きとどめた人たちはどうも私たちとは違うようですね。なぜ時間の経過にしたがってくれていないのか。それを考えてみたら面白いかも知れません。意外と単純なことなのかも知れませんし、あるいは、深い理由があるのかも知れません。わたしには良く分かりません。

ご一緒に読ませていただいたテキスト研究は、預言者の苦難について語り、裁きの言葉と救いの言葉とが絡らまって織り込まれていることに注意を喚起していました。興味深いことでした。

「聖徒の日」週報4面

プロテスタント教会では、11月の第1日曜日を「聖徒の日」として守ってきました。
先に天に召された兄弟姉妹を覚えて、主を讃美し、祈りをささげる主日となっています。

教会によっては、この日の礼拝を永眠者記念礼拝あるいは召天者記念礼拝として守り、午後に墓前礼拝を行うところもあるようです。

由来など、ごたごたと書いていますが、興味があればお読みくささい。

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エルサレムの人々は

「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。」(使徒言行録5章13節)

2日の聖書を読み祈る会で取り上げる箇所ですが、「ほかの者」「あえて」「仲間に加わる」「民衆」が何を意味しているのか、その理解・解釈が意外と難しいですね。ギリシャ語原文は以下のとおりです。

τῶν δε λοιπῶν οὐδεις  ἐτόλμα κολλᾶσθαι αὐτοις, ἀλλ  ἐμεγάλυνεν αὐτους  ὁ  λαός.

このギリシャ語表記は細部まで正しいわけではありません。申し訳ありません。ギリシャ語に詳しい方にはお分かりになるかと思います。長くなりますが、続きをお読みください。

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奏でる

辻井伸行さんの演奏をアクトシティー大ホールで聴かせてもらいました。初体験でした。

モーツアルトのピアノ協奏曲第21番ハ短調K.467。よく知られた曲ですね。ヨーロッパ室内管弦楽団という自主運営のオーケストラとの共演でした。

聴き終わって、なぜかわかりませんが、「奏でる」という言葉が素直に頭に浮かんでいました。

もう一つ、書き忘れていました。「独特の緊張感」です。耳を澄まして澄まして奏でるところからくるのだと思います。音の流れに引き込まれました。モーツアルト、楽しかったです。

ナグネ会世話人会

今月、募金箱をおいて、教会の皆さんにナグネ会への献金をお願いしていますが、急に、世話人会を開催することになり、東京に行ってきました。いくつかの懸案があり、意見交換をして、活動の方向を決めました。

その一つですが、何人かの方々に賛同人となっていただくようにお願いすることになりました。献金の呼びかけが、さらに広範なものとなるようにとの願いからです。事務の充実も課題となっています。

なお、HPとFacebookに「ナグネ宣教師からの便り」が掲載されています。

ナグネ会のHP

ナグネ会Facebook

耳なれない煩雑な話と、私たちの信仰

聖書について、私にはいささかややっこしいと感じる議論を耳にしました。そのことを少しご紹介し、私たちの信仰についてお話しいたします。ちょっと長くなるので、大変ですよ。

耳にしたのは、耳なれない話なのですが、聖書の著者問題です。著者問題といっても神ご自身が著者であるという信仰と、その信仰に立って、それでは、あれやこれやのことはどう考えたら良いのかという議論です。アメリカの福音派と呼ばれる教会の中で、さかんに議論されているようです。

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アナニアとサフィアは偽り・・・

使徒言行録5章1−11節に悲しくも大切な物語が記されています。26日(水)の聖書を読み祈る会で学びました。どうぞ、聖書を開いてお読みになってみてください。興味深い、そして、誤解を生みやすい物語でもありますので、要点をちょっとだけ書かせてください。

二人の献金は多額だったようです。永井訳はペトロとサフィアのやり取りを文字通りに翻訳しています。「乃ちペテロ彼に答えたり。我にいえ、汝等はこれ程に地所を売りしや否や。乃ち彼いへり。然り、それ程なり」(8節)。「これ程に」とは 多くというニュアンスを含む語のようです。

他の人々の献げものと比べても決して劣る額ではなかった。いや、多かった。しかし、彼等はそれが全てですと偽ったというのです。「多く」でなければならないし、それが「全て」であるということにしておかねばならないという思いに駆られていたのでしょう。

ペトロは彼らにこう言っています。「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」(4節)。つまり、偽る必要は一つもなかった。自由が尊ばれていたということですね。

ですから、原始教会の富の共有(4章32ー35節)、すなわち皆が売って代金を持ち寄ったのは、自由な喜ばしい行為によっていたということでしょう。言い換えると、先週学んだのですが、「大きな恵み」への喜ばしい応答、リスポンスであった(⇨「『好意を』or『恵みを』?」をご覧くださる)。けれども、アナニアとサファアは違っていた。「ねばならない」という偽りの善に生きて、大きな恵みの前ではすでに倒れていたのだと言えましょう。

ペトロは大きな恵みのもとに立ち帰るようにと願っており、聖霊はアナニアがその名のように「主は恵み深い」ことを知り、サフィアもサファイヤのように麗しく「主が装ってくださっている」ことを味わい知るようにと願っておられたのだと思います。

この物語は、大きな恵みによって偽善が「倒れて(「伏して」の意もある)・・・葬られ」(5−6節、10−11節)、大きな恵みによって倒れた者も伏して(すなわち主と共に甦らされ、立ち上がらされて)神を仰ぐように。そのような祈り(それが教会の祈りだと思います)と共に綴られているように思われます。

短気風?

メディア学者という肩書きのある人が、「ボブ・ディランは無礼で傲慢」と言うノーベル委員長の発言を十分確認しないで、それこそ「無礼で傲慢」と批判している記事がYahooに掲載されていました。

メディアの傾向なのでしょうか。短く、少しセンセーショナルな印象を与える言葉が掲げられます。それが独り歩きをして、発言の内容と趣旨とは違って、「無礼で傲慢」というレッテルを読む人の心に植えつけてしまうようです。

ショックだったのは、メディア学者と称される人が、そのレッテルを無批判に表現しているということでした。世の中に「短気」風が吹いていませんでしょうか。

ちなみに、このメディア学者の方はボブ・ディランの個性を評価し、尊重したいという趣旨で文章を綴っておられます。それは、ノーベル委員長の発言内容と変わりはなく、なんだ、同じことを言っておられるなと思わされたのでした。ですが、ユーモアという点で、ノーベル委員長のほうが一枚上と、私には感じられました。

短気風、言われる前に申しますが、我が家にも吹いています。いや、私のことです。気をつけましょう。