葛藤しながら

こんなことを書き始めています。

張田 眞さんの投稿 2018年3月23日(金)

3月18日週報4面です

黙想と祈りの会より

先日、マタイ福音書9章、12年間も病のもとにあった女性が主イエスを見ると「この方の服に触れさえすればなおしてもらえる」と思って近寄って後ろから主イエスの服の房に触れると癒されたという物語を読みました。
 この婦人の信仰を軽く見積もったり、批判的に見る人もいます。日本的に言えば、お地蔵さんをさすれば病気が治るというような迷信に似ているからです。 しかし、マタイ福音書は、この女性の中に、信仰をみてとっており、それを描き出しています。
 関連して一つのことをご紹介します。
 イーヴァントという神学者がドイツにおられました。宗教改革者マルチン・ルターの研究者です。この方の書かれた書物の一つに、「ルターの信仰論」という小さな本があります。
 この書物は1940年といいますから、もう80年前に書かれた古い書物ですが、日本語に翻訳されていなす。翻訳されたのはドイツ語で書かれてから何十年も後のことでに、この書物の評価が高く、長く読まれ続けているということを示しています。
 この書物の中に、マルチン・ルターの有名な言葉を取り上げて、次のようなことが記されています。
 キリストのもとにある信仰者というのは、「罪人であり同時に義人」と言い表すことができる。それは、こういうことだ、と言うのです。
 神様との交わりについて、一般には、私たちの内に罪がもはや認められなくなった時に神との交わり、その恵みが私たちに開かれる、と思われている。反対に、罪が認められるところでは、恵みは失われている、と思われている。けれども、それは違う。そうではない。
 そうではなくて、人が失われた者であること、すなわち罪を認識し、汚れ、絶望している人間、まさにその人間に、神は近くいます。それが真実である。
 罪人であることを深く認める、そこに真実に信仰が生きるのだ、というのです。
 そのことをキリストは私たちに教え、ご自身を差し出していてくださる、そう記しています。
 12年間も病で苦しみ、汚れを身に負った婦人が、イエスさまの衣の房に触れました。イエスさまが聖なる方であり、神のものであられる。そのしるしに触れました。それをイエスさまは信仰であるとおっしゃる。あなたの信仰があなたを救ったと言われるのでした。
 ある人が、こんなことを言っています。「主イエスは、彼女の存在そものも、その生涯、そして、信仰、そのすべてを受けとめようとされる。ご自分の御手の上に、彼女を置く。ささやかな信仰、誤りもそこに宿っているであろう彼女の信仰をも、ご自分の御手の中にお包みになる。そして、ご自分の御手によって、その信仰を、また、彼女のすべてを、新しくされる。お救いになるのである。」

りんごの苗木を探して

「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える。」この有名な言葉は宗教改革者ルターの言葉とされてきました。不思議と勇気を与えてくれる言葉ですが、この言葉をめぐって書かれた書物「ルターのリンゴの木」です。

この本の著者は1931年生まれ、1974年から1996年までヴッパータール大学で組織神学と歴史神学を講じてこられた。本書が出版されたのが1994年(日本語訳は2015年)。退職してまもなく深刻な脳梗塞に倒れ(66歳か67歳のことであろう。)、身体にひどい麻痺が残って研究生活ができなくなったとのこと。翻訳者によると著者最後の著作ということになろうということでした。
なお、翻訳者があとがきで「著者の文章は、議論の筋道が錯綜している上、挿入文が多く、省略もかなりあって翻訳にあたって苦労も多かったので、途中非力をも顧みず翻訳し始めたことを後悔することもあったが・・・」と記しておられるが、そのご苦労が分かるような気がする。
加えて、19世紀のドイツ敬虔主義諸グループへの容赦ない言及は、ほとんど知識のない私の頭を悩ませている。ただ、この点については学ぶ機会や手立てがないので本書は良い勉強の機会にはなっている。
そのうち、読書レポートを書きたいと思う、けれどもいつになることやら。

今日届きました。しばらく前から私の思いの中でですが、ルターが語ったと伝えられる例の言葉、そのリンゴの苗木とは何を意味しているのかという関心がわき起こってきていたので、書名に惹かれて購入しました。自分の終末を身近に感じられるようになったから…

張田 眞さんの投稿 2018年3月10日(土)

2月18日の週報四面です

最近はすっかりiPadで聖書を読むようになりました。入院して以来のことです。口語訳聖書は多くありますが新共同訳聖書を読むことのできるアプリは少ないです。それでも、2つのアプリを見つけて使っています。そのうちの一つは、英語のテキストも並べて読むことができるようになっています。また、ドレという方の版画も見ることができます。もう一つのアプリは機械的な朗読ではありますが音声で聞くこともできます。右手しか動かせない私にはありがたいです。旧約聖書のヒブル語や新約聖書のギリシャ語のアプリもあり、簡単な辞書もついています。便利になりました。神学生の時代にiPadがあれば良かったのになあと思ったりもします。

さて、14日の黙想と祈りの会ではマタイによる福音書9章1ー8節を取り上げました。2節にイエス様のもとに運ばれてきた中風の男に「子よ、元気を出しなさい。」と語られたイエスさまのお言葉が記されています。「元気を出しなさい」という語は新約聖書に8回出てきますが、「勇気を出しなさい」という意味とともに、「喜びなさいbe good cheer」「しっかりしなさい」と訳されることもあります。心にとまりました。

牧師の宿題、その答え

2月7日(水)の聖書を読み祈る会ではマタイによる福音書9章9節から13節を取り上げて短く黙想をしました。
この箇所は徴税人であったマタイが主イエスの弟子とされた話です。黙想の後で、分かりにくかったことについて話し合いました。話題になったのは13節のイエスさまのお言葉です。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどう言う意味か、行って学びなさい。」とありますが、どこに「行って」学べば良いのか、イエスさまはどこに行くようにとお命じになっておられるのか分からないと言うことでした。
確かに不思議な言葉です。どこにいけば良いのか、放り出されたような思いにもなります。(なお、『』で引用されているのは旧約聖書ホセア書6章6節の言葉です。)
牧師の宿題になりました。調べました。結論から申し上げます。「行って」とは、マタイのように弟子となってイエスさまに伴って行くということのようです。
元の言葉を調べると、マタイに向かって語られた「わたしに従いなさい。」と、「行って」とが対応していることがわかります。
「従う」とはイエスさまと同じ道を辿るという語です。そして「行って」とは「伴って行く」という語です。ですからイエスさまと共に行くことによって学ぶことになると、イエスさまは私たちを招いてくださっていると受け取ることができます。あてもなくどこかに行くということではないですね。
なお、従うはακολουθεωアコルテオー行ってはπορεύομαιポリューオマイです。

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パイロット版を手にして

本日、Facebookに投稿した文章をここに載せます。なお、ハイム・ラビン著「ヘブライ語小史」の紹介を私の個人ブログに少しづつ投稿しています。下記に引用した一節が記載されている章にいたっています。バビロン捕囚が終わった時代までのヘブライ語の消息が取り上げられていました。

「ネヘミヤ記8章8節には、書記官エズラが水門の傍にある広場で律法の書を民の前で読んだ時、『彼らは神の律法の書を翻訳して(メフォラシュmephorash)解説を加え、朗読箇所の[意味を]理解させた』と記されている。『理解させた』とはレビ人たちが人々に与えた説明のことであり、『翻訳して』とは聖書がアラム語に訳されたことを意味している。ちなみに聖書のアラム語訳は「タルグム」と表されている。この翻訳は聖書のヘブライ語を理解することのできなかった帰還したばかりの捕囚民にとって必要なことであった。同時にペルシャ当局への公式声明という目的もあったと思われる。」
これはハイム・ラビンの「ヘブライ語小史」に記されている一節です(簡潔にするために少し省略しています)。なぜご紹介したかというと、北村牧師が聖書協会が新しく出版しようとしている新聖書のパイロット版を届けてくださり、読ませていただいてさまざまな感想を持ったのですが、そのうちの一つのことと関連して記憶にとどめたからです。
聖書は翻訳・解釈・説明と共に伝えられ、その力によって信仰共同体が育成されてきたと言えましょう。それはつまり、信仰共同体における翻訳・解釈・説明の積み重ねが聖書出版にいたるともいえましょう。果たして、私たちの教会に新しい聖書翻訳を生み出す力があったのかどうかが問われているとも言えましょう。後日落ち着いて、雑感をブログに書き込みたいと思っています。まずは北村牧師にお礼を申し上げるとともに、感想の一端をご紹介します。

East21Asiaの起こり

今週、報告書2つが同封された封筒がとどきました。報告書の一つは昨年開催された「第一〇回国際会議」報告ともう一つは同じく昨年開催のセムナン教会主催「第54回アンダーウッド学術講座」参加報告です。東京の教会青年たちの自主団体East21Asiaから送られてきました。

同団体はナグネ宣教師の働きによるソウルのセムナン教会とのつながりと交流のなかから生まれました。10数年前になりますが、同教会のアンダーウッド学術講座に日本から牧師数名と青年数名が招かれて参加しました。牧師は私と現札幌教会の米倉牧師他2名、そして、主題講演者の近藤勝彦東京神学大学教授(当時)も行ってくださいました。主題は「東アジアの平和」だったと思います。このテーマを中心にこの年から3年連続で同学術講座が開催され、日本からの参加者が増えていきました。中国からの参加者もありました。

大変大きな集会でしたが、準備と運営はセムナン教会の青年たちの手によってなされました。もともと青年たちのお祭りのような集会だったのですが、志を高くして国際的な講座に模様替えされたのでした。

この講座に触発されて、私も働きかけて日本の教会青年たちのEast21Asiaがつくられ、青年たちが責任を持って今日まで運営してきました。セムナン教会との交流も続けられています。日本の教会青年は大いに刺激を受け、また、セムナン教会の青年たちに刺激を与えるほどになっています。

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失われた動詞の態「中動態」

古典ギリシャ語(聖書のコイネーギリシャ語も同様ですが)には、動詞に能動態、受動態の他に一般に中動態と呼ばれている態がありました。(英語でmiddle voice)。能動でも受動でもない人間の動作の性格・有りようを表現します。

神学校でギリシャ語に触れ、今日まで聖書を読むために細々と学んできましたが、文法で中動態について納得のいく説明に出会ったことはありませんでした。謎の態でした。能動でも受動でもない、その中間という分けのわからない説明で自分を納得させていたのでした。

ところが、日本の新進気鋭の哲学者がこの中動態に関心を持ち、深く掘り下げて、言語を切り口に、近代の人間の思考や社会のあり方、文化についての「見直し」提言をなさっているのです。昨年世に出たその人の書物を知り、中動態につての関心を喚起させられました。

その本の紹介を少しずつこのブログでさせていただきながら、自分の頭を整理していきたいと考えています。

今のところ、漠然とした予感ですが、聖霊の働きに与る信仰についての表現(聖霊論的表現)を理解するために(聖書解釈に)重要な意味を持つだろうと思っています。ちなみに、今日(1月28日)の礼拝で読んでいただいた聖書の箇所に中動態が用いられていました。

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感謝

今日(28日)の礼拝説教は26分。立ってさせていただきました。退院後、最長でした。ありがたいことでしたが、緊張して足に力が入って疲労がたまり動けなくなるようなことにはなりませんでした。リラックスして余裕がありました。体力、持久力、安定した姿勢と適切なバランスが身に付いてきているのだと思います。感謝です。

聖餐式を執り行うにはもう少し、コンディションが向上しなければならないでしょう。そのようになることを祈り願っています。