二つの礼拝を繋ぐことが

出来ないかと模索中です。

近くに無牧の教会があり、私たちの教会もお世話になりましたが、近隣の牧師先生がたが応援に出向いておられます。これは教会間の交わりにとって貴重なことだと思います。その貴重な交わりの機会をより幅広く共有出来ないだろうかというのが出発の動機です。

二つの礼拝をネットで繋ぎ、一つの礼拝を守るということです。

礼拝に限りません。講演会、聖書研究祈祷会、気軽な交わりの会などを場所は離れていても一緒に行えたら良いということです。

今は、スマホやタブレットの性能が飛躍的に向上しており、wi-fi環境も整ってきましたから身近な機材でできるかと想います。

「ヘブライ語小史」紹介第4章その2

第4章「聖書のヘブライ語」その2となります。少しづつ書き加えています。

ほんの少しづつしか前に進みませんが、いくつかの理由があります。

一つは、私の事情です。右手だけの作業であるということです。体力も不足しています。

二つは、ラビンの記述のややっこしさです。(アラム語や古典ヘブライ語、その祖語と周辺の言語についての知識と学問的議論が背景にあって書かれているからだと思います。)

リハビリの一環として、また個人的な勉強として「紹介」をブログに掲載して行こうと思っています。

News Letter を作成しようと奮闘中です。

GoodNewsLetter#2,これがさくせいちゅうのものです。良い素材があれば良いものが作れそうです。

GoodNewsLetter #2
映画「24の瞳」を監督した木下惠介さんは浜松の人です。市内に記念館があります。かつて銀行協会が使っていたという美しい洋風建築の中に設けられています。そこには氏の部屋が再現されており、書棚には愛読された多くの書物が並んでいます。その中には新約聖書も。
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イエスは旅に疲れ

ヨハネによる福音書4章6節です。イエスは旅に疲れておられた、と書かれています。

サマリヤ地方を通ってユダヤからガリラヤにぬける道は厳しかったのでしょうか。確かに起伏の多い所を歩くようです。自然の厳しさと同時に人間のあたりの厳しさもあったことでしょう。普通、ユダヤの人はガリラヤに行く時にはサマリヤ地方を避けて、ヨルダンの向こう(トランスヨルダン)を通って行ったと言われています。遠回りですが、わざわざそうしたのでした。サマリア人との間に長い間の葛藤・争いがあったからです。

人間関係のもつれ、それは簡単には癒されることのないなんとも言えない疲労感をもたらせます。

「疲れて」と訳されているのはκοπιαωです。「働く」「労する」「労苦」すなわち労し苦しむ、あるいは苦労して働く、とも、そして、「弱り果てる」とも訳されます。イエスは弱り果てておられた。井戸のそばに渇きを覚えて座っておられたのでした。

「水を飲ませてください。」その一言がサマリヤの女の心を開き、二人は大切なことについて言葉を交わすことになりました。

元気な力強い伝道も良いでしょうが、疲れ果てての伝道もあるのだと思います。イエスさまは軽蔑され、人に捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っておられる(イザヤ書53章3節)そのお姿をもって私たちのために労苦されたのです。そう思います。

宗教改革記念日

10月31日は宗教改革記念日です。500年前のその日、ドイツのヴィッテンベルクという町の城教会の扉に95ヶ条の提題と題する紙が貼られました。マルチン・ルターという神学教師が貼りました。そこには「まことの悔い改めとは何か」という主題で95ヶ条に及ぶ提題が書かれていました。贖宥状と呼ばれるお札を当時のカトリック教会は販売し、懴悔の代わりとなり、買えば償罪となると言っていたのでした。ルターはそこに、福音の変質を見てとり、それを正そうとしたのでした。その文書は瞬く間にヨーロッパ中に伝わり、宗教改革の火が点火されました。

ヴィッテンベルクの街と95ヶ条の提題もご覧ください。

 

 

1階集会室で撮りました。

礼拝堂に上がる昇降機が設置されました。有難いことです。今日は試乗がありました。その折に一階の集会室で撮りました。退院してから3週間がたちましたが、幸い体重に変化はありません。ホヤホヤの写真です。

φέρω「運ぶ」は「結ぶ」

「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。(ヨハネ福音書2章8節)

カナの婚礼の記事の中に、母マリアの懇願に応えてイエスは召使いに6つの石の水がめに、水を満たして世話役のところに持っていきなさい(運んでいきなさい)」とお命じになり、召使いは運んで行った(持って行った)とあります。その時、水はぶどう酒に変わっていたのでした。

テキストと黙想・説教を記しました。水が葡萄酒にをご覧下さい。プチ黙想もあります。

不思議な話ですが、水がぶどう酒に変わると言うことは身じかにないことではありません。ぶどうの木は地中から水分を吸収して実をならせます。枝にたわわに実ったぶどうからぶどう酒が作られます。ぶどうの木によって水がぶどう酒になると言えましょう。

そんなことを考えながら調べていくと、水いっぱいの石の水がめが運ばれていったのですが、その「運ぶ」φερωという語は「結ぶ」という意味もあり、ヨハネ15章に「(実を)結ぶ」とイエスが言われた言葉に用いられていることを知りました。

イエスの言葉に従って召使いたちが運んだ水がめの水は実を結んでぶどう酒となったのでした。

そういえば、中風の人をイエスがお癒しになったという記事で、4人のお男の人がその人を運んできましたが、その「運んで来た」もφερωが用いられています。

関連するプチ黙想もどうぞ。

 

 

 

 

 

 

聖書翻訳は難しい

日本聖書協会から新しい翻訳の聖書が出版されるようです。そのパイロット版が出ました。ほんの一部分ですが読ませてもらいました。

売れるだろうか、と言うのが私の感想です。一般の人が興味を抱くようなインパクトのある翻訳ではないし、教会の礼拝で用いられるようにも思われず、そうだとすると、キリスト教学校でも採用されにくいでしょう。

新共同訳はカトリックとの共同でした。また、旧約聖書は死海文書の発見とその研究成果が反映された定本が採用されるなど、新しさが実感されました。十分反映されたとは言えませんが、明確な翻訳理論がありました。そして、当時の日本を代表する研究者が動員され、文学者も大きく関与しました。心血注いでの作業がなされました。その苦労話を旧約学者の故左近先生から聞かされていましたから、新共同訳採用に躊躇はありませんでした。

今回も、大変な苦労があったことでしょうが、新しさという点で、また翻訳理論においても中途半端なように感じられます。口語訳聖書、また新共同訳聖書の他にどうしても必要なもう一冊ということにはならないと思います。キリスト教界全体が力を弱くしている昨今です。聖書事業に困難さが残るかもしれません。

少し重たい文章になってしまいましたが、聖書を読み、福音に関するコミュニケーションが豊かになるようにしたいものです。新しい翻訳がそのために用いられるように願います。