7月29日週報4面です

25日の黙想と祈りの会で読んだのはマタイ福音書18章1節以下でした。次のようなイエス様の言葉が記されていました。

『1そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。

2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、

3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。

4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。

5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」』

難しい言葉は一つもありませんが、それだからでしょうか、厳密に理解したいと思うと、重要な言葉の意味が曖昧に感じられてきます。それで、この言葉を心にとめる人は、いろいろなことを考え始めるのではないかと思います。偉いと言うことの価値や評価。子供の良さとは何か。子供を受け入れるとはどう言うことか。等々です。これらをイエス様の言葉とともに思いめぐらしはじめます。黙想と祈りの会でもそうでした。そして和やかな中にも、日々の生活で感じるいろいろなことが話題に上りました。黙想の楽しさを味わうひと時でした。

     それはそれとして、言葉を詮索してみました。「一番偉い」と訳されているのはμέγας(メガ「大きい」)と言う語の比較級μειζωνで、ここでは、具体的に何と何が比較されているというわけではないので最上級(一番偉い、あるいは大きい)と訳されるようです。マタイ福音書にはこの「大きいー小さい」を巡って交わされるイエス様の興味深いお言葉がいくつも記されています。

    次に「子供」ですが、辞書には性別による区別が生じていない幼い子供と書かれています。幼稚園児のように、まだ、区別や優劣が意識されない幼子ということでしょうか。

少しでもイエス様のお言葉がクリアーになれば良いのですが。

洗礼式があります

7月15日の主日礼拝で洗礼式を執り行いますので、洗礼に関することを書きます。


洗礼はイエス・キリストに結ばれてその死と復活にあずかります。ローマの信徒への手紙6章4節に「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」とあるとおりです。
これに関連して、次週の説教で取り上げるつもりですが、高倉徳太郎という先生が「深い生命」という説教の中に残しておられる言葉をご紹介いたします。「聖なる神の前に自己をかえりみ、罪を悔いる心にも深さはやどります。・・・ともすれば、私たちの魂は、水に浮かぶひさごのように、沈めても沈めてもぽかりぽかりと浮き上がります。傲慢だから、浮き上がるのです。自分がぐっと浮かび上がってくるのです。・・・ただ神の前に、自己の姿をまともに見つめて、心より懺悔する人は、深く沈んでついに神にまで上り行く人です。・・・十字架のキリストを黙して待つ。上から命の水はしたたり落ちて、必ずわがうちに、淵をなします。自分が自分を掘るのではありません。キリストが自分のうちに深き命を掘って下さるのであります。罪人の中に、罪の深さの中に、それにもまさる恵みの深さを掘り出して下さるのであります。」
主イエス・キリストの父なる神をあがめ、聖霊の祝福を祈りましょう。

2018/06/03の週報4面です

神の国を求める

「天国が素晴らしいところだと信じていても、だからといって、自ら命を絶った人は一人もいません。」,Appleの創業者スティーブ・ジョブスの言葉です。入学して半年で退学し、身を置いたのはたった一年半。その母校から招かれて、ある年の卒業式で門出を祝うスピーチをしました。その時の一節です。人生は、与えられている時を辿るのだから精一杯良く生きるようにということでしょう。その通りだと思います。,
ところで、なぜ「一人もいない」のでしょうか。それは、天国は自分で乗込むことはできず、招かれてこそ入るところだからですし、私たちは主にあってすでに天国に結ばれていて、それ故に地上の歩が天国への旅路とされている、からでありましょう。
その旅路について語る、「老いを登る」という言葉があります。老いは坂道ですが下るのではなく登り道。その険しさを私も少しづつ想像できる歳になりました。登ってもたどり着くことなく、しかも、霧に包まれてもいます。しかし、ある登山家の言葉が心に留まりました。濃い霧に包まれている頂に立って語った言葉です。「晴れていたら、ここから見ることができる景色はどんなだろう。きっと素晴らしいことだろう。ワクワクしています。」

譬話につて

イエスさまはしばしば譬えでお話になりましたが、水曜日の聖書の黙想と祈りの会では、このところマタイによる福音書の譬え話を取り上げています。
譬えとはなんでしょうか。そのことをお話したいと思います
一般に譬えは例話であると考えられているかもしれません。例話とは難しい真理をやさしく印象深く伝えるために、具体的で身近なお話に置き換えることです。例えば落語はその一例です。落語は昔の僧侶の辻説法に起源があると言われています。まず「まくら」では、仏法の深遠な教えが提示され、続いて、愉快なあるいは心にしみいる「お話」があり、最後に「おち」で締めくくられます。説法に引き込まれ、それを聞き終わると、深遠な仏法が心におさまり、納得するに至ります。辻説法のあるいは落語の「お話」が例話にあたります。イエスさまは無学な漁師たちに聖書の真理を解きほぐして印象深くお話になった、それが譬えであると一般にはそう考えられているのです。
そのような一面が確かにありますが、譬えは例話以上のものです。旧約聖書にも新約聖書にも多種多様な譬えが見られます。ヘブル語ではマーシャールと呼ばれます。謎の言葉です。ギリシャ語ではパラボレーで、英語のパラブルはこれに由来しています。パラとは傍にという意味で、傍に置くあるいは投げるというのがその意味です。
目に見えない真理や説明しきれない事実に目を開かせるためにその傍に置かれた話、それが譬えです。イエスさまは譬えで神の国についてお語りになりました。最近の聖書の研究者は譬え話の根っこには隠喩とと呼ばれる特殊な言葉の彩が観察されると言っています。そのことは、改めていつかご紹介しますが、隠喩は説明するのではなく、開示する言葉です。その顕著な特徴は歪みです。不合理なこと、不自然さがあるということです。その歪みが重要で意味深いと言われます。開示する力が宿っている。ですから
譬え話を読むときには、譬え話の中に見られる歪み(しばしば合理化されてしまいますが)に着目して味うと良いと言われるようになりました。参考にしていただければ幸いです。

神の義とは(5月13日の週報4面です)

先週に引き続き、今年度の教会方針に関連して、ご説明します。

聖書が語る神の「義」(旧約聖書のヘブル語ではツェダーカー、新約聖書のギリシャ語ではディカイオス)の意味するところを一言で説明することは不可能です。それは聖書全体を貫いて証しされる神のまこと、神ご自身の在りようだからです。

あえて、大胆に「ふさわしさ」「ふさわしくあること」と言い換えたいと思います。そうすることができると思います。神が神ご自身との関係において、また、神が被造物(私たち)との関係において示される「ふさわしさ」「ふさわしくあること」それが義です。

余談ですが漢字の「義」という文字は祭儀において屠られる羊を意味しているようです。捧げものですね。そこではふさわしいものが捧げられ、ふさわしいありようが生じると信じられていました。聖書は神の愛する独り子が十字架においてご自身を神に献げて罪人である私たちの贖い(救い)となってくださったと語っています。それは神の義、神がふさわしくあることであったと言うのです。まことに驚くべきことです。ですから義は「愛」と置き換えられることもあります。

そして、神はその義によって私たちを義とし、つまり聖霊によって私たちが喜んでそのことを受け入れ、私たちを神との関係においてふさわしいものとし、私たちが私たちの間においても、互いにふさわしくあるようしてくださるのです。

主イエスは「神の義」を求めなさいと仰せになり、神がそのことを喜んでくださるとお教えくださいます。

神の国とは(5月6日週報4面より)

今年度の教会方針に関連して、「神の国」についてご説明します。

新約聖書では「天国」とか「御国」とも表記されていますが、「国」とは「支配」ということです。「神の義と愛と平和によるご支配」です。御手が伸ばされて置かれている、それが神の国ということができましょう。  

    ですから、地上のどこかに目に見える仕方で神の国があるというわけではありません。また、私たちが思い描くユートピアのことでもありません。どんなに理想的と思われる所があったとしても、だからそこが神の国であるというわけではありません。誰の目から見てもここが神の国であると言えるように、私たちに分かりやすく示して欲しいと思うかもしれませんが、神のご支配は私たちの思いを超えていますので、私たちには捉え難く、思い描くことはできません。また、私たちが悲惨だと感じ、たとい人間の罪と愚かさと悲しみが折り重なっているところであっても、神の国と無関係であるとは言えません。神が御手を伸ばしてくださり、御手をおいてくださる、そこが神の国です。そして、その神の国は御言葉(イエス・キリスト)によって私たちのうちに開示され拓かれ、信仰において結ばれます。また、信仰において結ばれた者たちの交わりが神の義と愛と平和のご支配を映し出すことになります。私たちはまったき神の国の到来と実現を待ち望みながら、御言葉によって神の国に拓かれ、御言葉のもとで「御国を来らせたまえ。」と祈ります。教会がそのような交わりであり、そして私たちの社会が少しでも神の国(義と愛と平和によるご支配)を映し出すこととなるようにと願い、祈りたいと思います。

フライングですが その2

私の所属する日本基督教団東海教区西静分区総会(5月11日)に向けて当日配布するために認めた文章を、フライングですがここに投稿します。これは、分区だけではなく浜松元城教会総会においても同趣旨のことを申し上げようと考えているところのものです。分かりにくい文章ですが寛容な心でお読みください。

なお、フライング そに1もお読みください。

このような呼びかけをさせていただく背景には、教会員の高齢化と教勢の停滞というどこの教会も抱えている厳しい現実を受け止めざるを得ないという状況もあります。そして、今、何をなすべきかということであります。


諸教会の堅立と伝道の継続・推進のために

分区総会議長 張田眞
分区諸教会、また兄弟姉妹の皆様の参画を得て、教会と分区が直面している諸課題を検討し、何をすべきか、何ができるかを研究しつつ、少しずつでも福音の伝道と証しが前進していくように、そのための良き施策を見出したいと願っています。
検討・研究のための手段や為すべきことについての具体的なアイデアが既にあると言うわけではありません。いわばゼロからの出発です。とりあえずは、今総会で議員の皆さまから自由にご意見やご提案をいただき、分区総会議長の責任で何らかの手段を見出し、取り組んでいきたいと考えています。宜しくお願いいたします。
少し先走ることになりますが、何を為すかということに関して私の頭の中に思い浮かんでいることを紹介させていただきたく思います。お許しください。
それは一言で申し上げますと、「教会人」が育まれ、そして「聖なる者の僕として生きる人々」が育ち生まれていく分区を形成していこうということです。そのためには、私自身もそうですが、遣わされている教師がさらに豊かに成長させていただく必要がありましょう。信徒の方々も教会生活を通してさらに恵みに豊かにあずかることを願っておられるにちがいありません。主日礼拝の充実、聖書を読み祈り讃美をささげること、その喜びが分かち合われることが大切です。言うまでもないことですが恵みにあずかって恵みに仕える者は、神の恵みによる良き経験(労苦)を重ねることによって成長することとなりましょう。西静分区は信仰の先輩たちが残してくださった遺産(人を癒し、仕え人を育む諸事業とそこに従事してこられた人々とその経験)があります。何らかのつながりを得て、この地域と諸教会がともに聖なる者の僕として成長して、神によって人の育まれるところとなるようにと願います。
キリスト者が育まれることについて、昔から「霊性の涵養」ということが言われてきました。私の定義ですが、霊性とは聖霊によってわたくしたちのうちに具わる気質のことで、それは神の国を待ちつつ絶えず神の国に向かって歩もうとするキリスト者の人格の根底となっている性質です。繰り返しますが霊性は聖霊の働きにより私たちのうちに創られます。また、霊性が培われることを「涵養」と言い表します。それは降り注いだ雨が土の中に浸透していき、帯水層をなし、地下水となって。ついには地表を潤すように。長い時間をかけて培われることを言い表しています。霊性は、そのようにして私たちのうちに醸成され、神の国を待ちつつ神の国へと向かう歩みを牽引することとなります。霊性の涵養こそ「教会人」を育て「聖なる者の僕」を育む要点と言えましょう。神を礼拝し御言葉に聞き、讃美しつつともに教会形成のために、また宣教のために労する不断の営みをとおして霊性は培かわれます。
マルチン・ルターの言葉として伝わっていますが、「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの苗木を植える」という言葉があります。昨今、私自身が終わりを自覚するようになったからでしょうか、この言葉に惹かれています。その意味するところは黙示録的な文脈のもとで理解できると言われます。世界が滅びるとは困難や苦難を伴う終末を意識した表現ですが、しかし、神が新しい天と新しい地とをもたらしてくださるという希望がたたえられています。つまり、どのようなときにも、世界と私たち自身に根ざすことによって希望を持つことも失望することもせず、神の国と神の義とを求め、1日1日の労苦にあずかるということです。神はキリストの十字架において恵み深くいてくださいました。ご自身を義とされたのでした。そのことを覚え、恵みののもとに苗木を植える(十字架の福音のもとに立つ)ということです。関連しますが「いつも海の上に帆をはって、心を港につないでおかない。」という言葉もあます。神の恵みという大海に心の帆をはって、自分という港にそれを決してつながない。私たちはそのようにして自由において生きるのだと思います。
さて、分区の課題は多々ありますが、良き志を与えられ、主にある交わりを豊かなものとなし、必要なそして役に立つツールにも習熟し、事柄にじっくりと取り組むことができる環境を整えること。そのことも重要な検討課題となりましょう。西静分区に連なってよかったと皆が喜び合える分区として成長させていただきたいと願います。

フライングですが その1

2017年度も西静分区諸教会の交わりが祝されたことを感謝いたします。そして2018年度も共に福音にあずかり、福音を証しする歩みとなるように祈りましょう。

                         分区総会議長 張田眞

昨年は分区総会を前にして、私が病に倒れてしまいご心配をおかけし、また、ご迷惑をおかけしました。幸い、兵頭辰也牧師が分区議長代行を務めてくださり、分区における教会の交わりがつつがなく守られました。感謝いたします。

さて、年度末には教師の移動がありました。遠州栄光教会の平野芳子牧師と盛合尊至伝道師が新たな歩みへと向かわれ、同教会には山本克己牧師と江間紗綾香牧師が着任、無牧であった袋井教会には川中真牧師が赴任されました。お三人の先生方を心から歓迎するとともに、それぞれの教会の歩みが主にあってますます健やかなものとなりますようにと願い祈ります。
2018年度ですが、各委員会の担当者に変わりはありません。引き続き分区活動が着実に行われ、諸教会の形成と伝道に助けとなるようにと願っております。また、教会員の高齢化と教勢の停滞が続いていますので、この厳しい状況を受け止めて、諸教会の堅立と伝道の継続・推進のために力を注ぎ、取り組むべきことは何かを検討し、信仰に根ざした明確なビジョン共有し、良き施策を見出していきたいと願っています。別紙をご覧ください。ご協力をお願いいたします。

葛藤しながら

こんなことを書き始めています。

張田 眞さんの投稿 2018年3月23日(金)