サンタクロース

ある教会幼稚園でクリスマスの礼拝と祝会がありました。いつものようにサンタクロースの登場です。

主任の先生がサンタさんを歓迎して、子どもたちも大喝采です。ところが・・・先生が「お太りになりましたね」と思わず叫んだのでした。サンタさんの衣装が小さく見えたようです。

サンタさんは心の中で「去年と変わらないんだけどな」と呟きながら、「はい。トナカイのお世話で忙しくしているんだけど、良く食べるので太ってしまうんだね。」と答えたのでした。子どもたちは「へえ、そ、そうなんだ」という顔をしていました。そして、サンタさんのお話がはじまりました。

ピーテル・ブリューゲル(1525-1569)の作品「ベツレヘムの人口調査」

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この絵は表題がなければ、何を描いているのか全く見当がつきません。画家が住まうフランドル地方の寒村の一風景、質素な人々の日常の暮らしぶりのように思われます。しかし、実は、その見当のつかないというのが、画家の狙いであったと言われています。
なるほどクリスマスを迎えるであろう極寒の季節ではあるが、人口調査という表題に関係することと言えば、左端の集会所のような所におおぜいの人が登録のために集まっているのがみられるだけです。それは、見る者の目がうっかり見過ごしそうなところに配置されています。
しかも、中央下のやや右寄りに、ろばに乗り大きなマントで身を覆ったマリアと、その前に年老いて背中をまるめたヨセフとが描かれていて、彼ら二人に目をくれる者は画面には一人もいません。
二人が「ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上っていった」ことはおよそ人々に気づかれない普通のことでしかなかった。その普通の風景の中に、しかし、救い主誕生の知らせを描くことによって、画家はクリスマスの出来事を迎え入れている。そう思われます。

11月27日週報4面より

長老会神学大学校

お訪ねしています。いまは、ナグネ宣教師の授業に出ています。日本の神学が主題で、難しい話を講義しています。

学生はノートパソコンやタブレットで講義内容を打ち込んでいます。授業の時間は3時間。大変なものです。教室には学生が120名ほどです。

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棚村先生ご夫妻をお招きして

来年3月4-7日に東京神学大学名誉教授の棚村重行先生と、奥様で東京女子大学講師の惠子先生を浜松にお迎えします。西静分区・教師会が浜北教会と袋井教会、そして、浜松元城教会の協力を得て招請いたします。この投稿の最後におおよその予定をご紹介しておりますので、ご覧下さい。

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神の御心は、連鎖か、それを断ち切る赦しか

聖書を読み祈る会での使徒言行録の学びの一旦です。11月16日は5章28-32を学びました。使徒たちは捕らえられ最高法院に引き出されましたが、その時の尋問と弁明、そのやりとりが面白いと思いました。

大祭司は問いました。「あの男の流した血の責任を我々に負わせようとしている。」。

ペトロは答えました。「神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。」

多くの説明を必要としますが、ここでは省略します。要点は、「血の責任を・・負わせる」(永井訳は「血を・・帰せしめる」)と「木につけて殺す」とは、ともに罪に定めて「呪う」という意味を含んでいます。

そして、神の御心をどのように受け取るべきかが、焦点となっています。

つまり、大祭司たちは、イエスを罪に定めて呪って殺したことを神の御心と確信しており、使徒たちはその自分たちを呪っており、それが神の御心であると宣伝している。けしからんことだ、と言っています。。

それに対して、ペトロは、神の御心は罪に定めて呪うことではなく、あなたがたが呪って木にかけたイエスをとおしてイスラエルを、すなわち、あなたがたを、また私たちを、救うということだと答えています。

一方は呪いの連鎖に陥っており、他方はその連鎖を断ち切る赦しに開かれています。

ちなみに、原文は、以下のとおりです。

καὶ βούλεσθε ἐπαγαγεῖν ἐφ᾽ ἡμᾶς τὸ αἷμα τοῦ ἀνθρώπου τούτου. (Act 5:28 BYZ)

Ὁ θεὸς τῶν πατέρων ἡμῶν ἤγειρεν Ἰησοῦν, ὃν ὑμεῖς διεχειρίσασθε, κρεμάσαντες ἐπὶ ξύλου.Τοῦτον ὁ θεὸς ἀρχηγὸν καὶ σωτῆρα ὕψωσεν τῇ δεξιᾷ αὐτοῦ, δοῦναι μετάνοιαν τῷ Ἰσραὴλ καὶ ἄφεσιν ἁμαρτιῶν. ( (Act 5:30 ,31 BYZ)

非神話化

13日の「おとなの分級」で『非神話化』という言葉を使いました。半分肯定しつつ、半分は否定しつつ用いたつもりですが、十分にご説明できず、何のことだろうと戸惑われた方がおられたかと思います。

初めてその言葉を耳にしたのは48年前です。ルドルフ・ブルトマンという新約聖書学者の書物を通してでした。聖書の記述を『神話』つまり、神々の物語と呼ぶことができるかという問いがありますが、それはそれとして、聖書の言語と宗教思想を現代のそれに落とし込むことを非神話化という言葉で表現していたかと思います。

事柄としては解釈・翻訳ということですが、ブルトマンが取り組んだのは、新約聖書の舞台装置である黙示文学から、その使信を現代の舞台装置としての実存主義に翻訳しようとしたのでした。それで、いっとき聖書の実存主義的解釈が流行りました。

聖書だけではなく、キリスト者の生活を彩るあらゆることは、解釈・翻訳されなければ現代人には受け取りがたいものとなりましょう。そういう意味では、非神話化という作業が常に伴います。しかし、聖書の使信をその舞台装置から完全に引き離すことができるのか、またそれが適切なことかどうかはよく考えてみなければなりません。

非神話化によって実存主義思想の中に無理やりに聖書の使信を織り込んしまい、その豊かさを削ぎとってしまうということになりかねません。また、現代の知見を絶対視してその範囲で聖書の使信を認めるというようなことにもなりかねません。そうしたら、極端かもしれませんが、聖書の使信はせいぜい生活訓程度のことになってしまうでしょう。

解釈に関してはよくよく考えて取り扱う必要がありましょう。

13日の週報4面です

聖書を読み祈る会の学びから

11月9日(水)の学びは使徒言行録5章17-26節でした。おわかりのように、少しずつ読み進んでいます。

5章は使徒たちが不思議な御業を行い、主イエス・キリストの御名を宣べ伝えて、人々から称賛されていたという出来事にはじまりました。そして、この日の箇所は、エルサレムの指導者たちは使徒たちをねたんで捕らえ、公の牢に入れたという出来事が記されています。「大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた」(17節)と書かれていますから、並々ならぬ思いと決意によってそれがなされたと言うことでありましょう。

ところが、ところがです、夜中のこと、主の天使がいとも簡単に牢の戸を開けて使徒たちを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、その命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と語ったというのです。それで、使徒たちは朝早く境内に入って教え始めたのでした(21節)。
そして、エルサレムの指導者たちは、牢に使徒たちのいないことを知らされて唖然とするだけでした。そんな様子が綴られています。

さて、この箇所から学ぶことは何でしょうか。二つあると思います。

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挨拶を禁止すべきかどうか・・・

以下は、わたしの個人ブログに書き込んだことですが、思い出とともに、こんなことを考えさせられています。そのご紹介です。

ある都会のマンションで挨拶を禁止すべきかどうかということが問題・課題となっている。そんな新聞投稿を読みました。

考えてみると、見知らぬ人と挨拶を交わすのは、山登りのときだけになってしまった感があります。下界では挨拶しないのが常識で、下手に挨拶したらやっかいなことになるかも知れない、そんな様子が観察されます。

経済優先の近代社会の行き過ぎからくる貧しさだと思います。見知らぬ人であっても隣人として受けとめる社会を培っていかなければなりませんね。

思い出されるのはかつて三井銀行の社長をされたKさんのことです。わたしが洗礼をお授けし、葬儀の司式もさせていただいたのですが、この方は、本社の近くにある日比谷公園を散歩してから出勤しておられました。公園ではすれ違う人と挨拶をかわし、その中にはホームレスの人たちもおられて、みな顔見知りであったのだそうです。

互いに挨拶を交わすところから、少しずつ社会が良くなっていくと思わされます。すべり台社会と言われて久しいのですが、共に生きているのだということを受けとめ合う「場」を失ってはならないと思います。

戸惑うのは当然ですね

エレミヤ書を読んで(他の預言書も同じですが)、私たちが戸惑うことの一つは、時の流れに沿って預言の言葉が並べられていない、そう感じられることではないかと思います。

6日のおとなの分級では、新しい契約を告げる言葉(30、31章)が唐突に登場していると感じられて、そのことを披瀝してくださった方がおられました。そう感じられます。

近代人は時の経過にそって事柄を整理し、因果関係を理解しようとする習慣がありますが、預言者とその言葉を書きとどめた人たちはどうも私たちとは違うようですね。なぜ時間の経過にしたがってくれていないのか。それを考えてみたら面白いかも知れません。意外と単純なことなのかも知れませんし、あるいは、深い理由があるのかも知れません。わたしには良く分かりません。

ご一緒に読ませていただいたテキスト研究は、預言者の苦難について語り、裁きの言葉と救いの言葉とが絡らまって織り込まれていることに注意を喚起していました。興味深いことでした。