非神話化

13日の「おとなの分級」で『非神話化』という言葉を使いました。半分肯定しつつ、半分は否定しつつ用いたつもりですが、十分にご説明できず、何のことだろうと戸惑われた方がおられたかと思います。

初めてその言葉を耳にしたのは48年前です。ルドルフ・ブルトマンという新約聖書学者の書物を通してでした。聖書の記述を『神話』つまり、神々の物語と呼ぶことができるかという問いがありますが、それはそれとして、聖書の言語と宗教思想を現代のそれに落とし込むことを非神話化という言葉で表現していたかと思います。

事柄としては解釈・翻訳ということですが、ブルトマンが取り組んだのは、新約聖書の舞台装置である黙示文学から、その使信を現代の舞台装置としての実存主義に翻訳しようとしたのでした。それで、いっとき聖書の実存主義的解釈が流行りました。

聖書だけではなく、キリスト者の生活を彩るあらゆることは、解釈・翻訳されなければ現代人には受け取りがたいものとなりましょう。そういう意味では、非神話化という作業が常に伴います。しかし、聖書の使信をその舞台装置から完全に引き離すことができるのか、またそれが適切なことかどうかはよく考えてみなければなりません。

非神話化によって実存主義思想の中に無理やりに聖書の使信を織り込んしまい、その豊かさを削ぎとってしまうということになりかねません。また、現代の知見を絶対視してその範囲で聖書の使信を認めるというようなことにもなりかねません。そうしたら、極端かもしれませんが、聖書の使信はせいぜい生活訓程度のことになってしまうでしょう。

解釈に関してはよくよく考えて取り扱う必要がありましょう。

13日の週報4面です

聖書を読み祈る会の学びから

11月9日(水)の学びは使徒言行録5章17-26節でした。おわかりのように、少しずつ読み進んでいます。

5章は使徒たちが不思議な御業を行い、主イエス・キリストの御名を宣べ伝えて、人々から称賛されていたという出来事にはじまりました。そして、この日の箇所は、エルサレムの指導者たちは使徒たちをねたんで捕らえ、公の牢に入れたという出来事が記されています。「大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた」(17節)と書かれていますから、並々ならぬ思いと決意によってそれがなされたと言うことでありましょう。

ところが、ところがです、夜中のこと、主の天使がいとも簡単に牢の戸を開けて使徒たちを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、その命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と語ったというのです。それで、使徒たちは朝早く境内に入って教え始めたのでした(21節)。
そして、エルサレムの指導者たちは、牢に使徒たちのいないことを知らされて唖然とするだけでした。そんな様子が綴られています。

さて、この箇所から学ぶことは何でしょうか。二つあると思います。

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挨拶を禁止すべきかどうか・・・

以下は、わたしの個人ブログに書き込んだことですが、思い出とともに、こんなことを考えさせられています。そのご紹介です。

ある都会のマンションで挨拶を禁止すべきかどうかということが問題・課題となっている。そんな新聞投稿を読みました。

考えてみると、見知らぬ人と挨拶を交わすのは、山登りのときだけになってしまった感があります。下界では挨拶しないのが常識で、下手に挨拶したらやっかいなことになるかも知れない、そんな様子が観察されます。

経済優先の近代社会の行き過ぎからくる貧しさだと思います。見知らぬ人であっても隣人として受けとめる社会を培っていかなければなりませんね。

思い出されるのはかつて三井銀行の社長をされたKさんのことです。わたしが洗礼をお授けし、葬儀の司式もさせていただいたのですが、この方は、本社の近くにある日比谷公園を散歩してから出勤しておられました。公園ではすれ違う人と挨拶をかわし、その中にはホームレスの人たちもおられて、みな顔見知りであったのだそうです。

互いに挨拶を交わすところから、少しずつ社会が良くなっていくと思わされます。すべり台社会と言われて久しいのですが、共に生きているのだということを受けとめ合う「場」を失ってはならないと思います。

戸惑うのは当然ですね

エレミヤ書を読んで(他の預言書も同じですが)、私たちが戸惑うことの一つは、時の流れに沿って預言の言葉が並べられていない、そう感じられることではないかと思います。

6日のおとなの分級では、新しい契約を告げる言葉(30、31章)が唐突に登場していると感じられて、そのことを披瀝してくださった方がおられました。そう感じられます。

近代人は時の経過にそって事柄を整理し、因果関係を理解しようとする習慣がありますが、預言者とその言葉を書きとどめた人たちはどうも私たちとは違うようですね。なぜ時間の経過にしたがってくれていないのか。それを考えてみたら面白いかも知れません。意外と単純なことなのかも知れませんし、あるいは、深い理由があるのかも知れません。わたしには良く分かりません。

ご一緒に読ませていただいたテキスト研究は、預言者の苦難について語り、裁きの言葉と救いの言葉とが絡らまって織り込まれていることに注意を喚起していました。興味深いことでした。

「聖徒の日」週報4面

プロテスタント教会では、11月の第1日曜日を「聖徒の日」として守ってきました。
先に天に召された兄弟姉妹を覚えて、主を讃美し、祈りをささげる主日となっています。

教会によっては、この日の礼拝を永眠者記念礼拝あるいは召天者記念礼拝として守り、午後に墓前礼拝を行うところもあるようです。

由来など、ごたごたと書いていますが、興味があればお読みくささい。

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エルサレムの人々は

「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。」(使徒言行録5章13節)

2日の聖書を読み祈る会で取り上げる箇所ですが、「ほかの者」「あえて」「仲間に加わる」「民衆」が何を意味しているのか、その理解・解釈が意外と難しいですね。ギリシャ語原文は以下のとおりです。

τῶν δε λοιπῶν οὐδεις  ἐτόλμα κολλᾶσθαι αὐτοις, ἀλλ  ἐμεγάλυνεν αὐτους  ὁ  λαός.

このギリシャ語表記は細部まで正しいわけではありません。申し訳ありません。ギリシャ語に詳しい方にはお分かりになるかと思います。長くなりますが、続きをお読みください。

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奏でる

辻井伸行さんの演奏をアクトシティー大ホールで聴かせてもらいました。初体験でした。

モーツアルトのピアノ協奏曲第21番ハ短調K.467。よく知られた曲ですね。ヨーロッパ室内管弦楽団という自主運営のオーケストラとの共演でした。

聴き終わって、なぜかわかりませんが、「奏でる」という言葉が素直に頭に浮かんでいました。

もう一つ、書き忘れていました。「独特の緊張感」です。耳を澄まして澄まして奏でるところからくるのだと思います。音の流れに引き込まれました。モーツアルト、楽しかったです。

ナグネ会世話人会

今月、募金箱をおいて、教会の皆さんにナグネ会への献金をお願いしていますが、急に、世話人会を開催することになり、東京に行ってきました。いくつかの懸案があり、意見交換をして、活動の方向を決めました。

その一つですが、何人かの方々に賛同人となっていただくようにお願いすることになりました。献金の呼びかけが、さらに広範なものとなるようにとの願いからです。事務の充実も課題となっています。

なお、HPとFacebookに「ナグネ宣教師からの便り」が掲載されています。

ナグネ会のHP

ナグネ会Facebook

耳なれない煩雑な話と、私たちの信仰

聖書について、私にはいささかややっこしいと感じる議論を耳にしました。そのことを少しご紹介し、私たちの信仰についてお話しいたします。ちょっと長くなるので、大変ですよ。

耳にしたのは、耳なれない話なのですが、聖書の著者問題です。著者問題といっても神ご自身が著者であるという信仰と、その信仰に立って、それでは、あれやこれやのことはどう考えたら良いのかという議論です。アメリカの福音派と呼ばれる教会の中で、さかんに議論されているようです。

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