「日本基督教団の伝道・宣教の課題」

Posted by harimako1 on 3月 23, 2016
日韓交流, 活動報告

「日本基督教団の伝道・宣教の課題」
-「日本基督教団は伝道をどう進めて行くか」に対する応答と提言-

ナグネ(洛雲海)
日本基督教団韓国派遣宣教者
大韓イエス教長老会Saemoonan教会協力教役者
長老会神学大学校助教授(組織神学)

2015年度宣教方策会議
2016年3月7-8日 於富士見町教会

目次

はじめに
1.外から見た日本基督教団の伝道的状況、世界宣教的状況
2.福音理解の相違からくる両陣営の問題
3.「あれか、これか」ではなく、「あれも、これも」
4.伝道即宣教、宣教即伝道
5.愛なくして伝道なし、宣教もなし
6.国内だけでなく国外にも視点を拡大し、神の国の視点から伝道・宣教を実践する
7.伝道・宣教の対象は全被造物
8.聖霊に満たされて生きること、聖霊を信じること
おわりに

はじめに

今日ここに発題の機会をお与えくださった神さまと皆さまに衷心より感謝申し上げます。
私は今日、単なる発題をもって与えられた責を果たそうとは考えておりません。責任あるお立場で私たちの教団をリードしておられる先生方の前で発題する貴重な機会です。伝道・宣教に関する日本基督教団の「課題」を明らかとし、祈りをこめて「提言」させていただきたいと願っています。これから申し上げることは、拙い暴論のように聞こえるかもしれません。新しい話は何もないことでしょう。しかし、どうか今から語ることを、教団から海外に派遣された一宣教者の切実な訴えと受け止めてくださって、しばし忍耐をもってお聞きいただけますよう、心からお願い申し上げます。

「愛なくして伝道なし。伝道に至らぬ宣教もなし」。また「愛なくして宣教なし。宣教に至らぬ伝道もなし」。このことを踏まえて「伝道即宣教、宣教即伝道」と申したく思います。こうした主張の基盤は、イエス・キリストにあって「あれも、これも」志向しようとする統全的(holistic)な思考様式です。伝道と宣教、両者相俟たずして、福音は「まったき福音」とはならないことを思います。言葉は受肉してこそ具体化され、歴史化されるものです。受肉しない言葉は空しいものです。信仰生活においても神学の営みにおいても、愛ある統全的な姿勢と行動が必要であることを思います。私たちが愛をもって伝道・宣教に専心する者となるために、まず自らを省みて深く悔い改め、愛にして霊なる神、聖霊を信じ、聖霊に満たされることを祈り願いつつ、生きる者となりたく思います。そのような者となるとき、私たちのことばと行動を含む生そのものが伝道となり宣教となるにちがいありません。「伝道か、宣教か」といって争うばかりで、伝道・宣教そのものが一向に進展しないでいるような状況を克服することが教団の課題です。したがって、私の提言は、この状況を皆で悔い改めて祈ること、右も左も、保守も進歩も、教会派も社会派も中間派も、皆が集まり共に悔い改めて祈ること、そのための大祈祷集会を教団・教区・支区・分区の規模でそれぞれ全国的に起こして行くことです。そうすれば、必ずや私たちは聖霊に満たされ、力を得て、伝道・宣教へと具体的に歩みだす者となるにちがいありません。鍵は健全な聖霊信仰にあります。聖霊なる神を信じて求め、聖霊に満たされることを心から願おうではありませんか。これこそ、今日、私が皆さまに訴えたいことです。

伝道も宣教も、聖霊に満たされた者が突き動かされるようにしてなす愛の業です。その限り、両者は別物ではあり得ません。どちらか一方で十分と考えることは欺瞞です。ここでは、ギリシャ語やラテン語などの諸外国語に遡って伝道とか宣教などの意味を検討してみたり、歴史的背景や経緯を探ってあれこれ申してみたりするつもりはありません。時間は限られています。そこで、今から私は、私たち日本基督教団の伝道・宣教にとって喫緊かつ核心的と思われる問題に焦点を絞って、思うことを忌憚なく述べさせていただきたく思います。教団を愛するがゆえです。

まず、私の立場を二つに限って、ここに明らかとさせていただきます。第一に、私は信仰において統全的(holistic)な立場の者です。つまり、信仰の事柄において、ある特定の方向や部分に偏向した姿勢をとるのではなく、全体的あるいは総体的かつ統合的な姿勢をもって、全きかたちを志向する者であるということです。たとえば、伝道・宣教については「あれか、これか」ではならないと考えます。むしろ、三位一体の神を信じる信仰において「あれも、これも」志向しようとします。考えて見ますと、日本基督教団は合同教会であるがゆえに、その歴史的経緯からしても、もともと統全的志向性をもつ教団であることを思います。教団的であるとは統全的であることとも見なせましょう。第二に、私は信仰的決断をもって聖書を正典とする立場の者です。もちろん、この世のあらゆる問題に対して、具体的な解決を与えることのできるようなものとして聖書を捉えているわけではありません。しかし、聖書を「信仰と生活との誤りなき規範」とすることを通して、考え行動する者であるということを申しておきます。これら二つのことを明らかとした上で、本題に入らせていただきます。

1.外から見た日本基督教団の伝道的状況、世界宣教的状況

それは危機的と見えます。なぜなら、教団の業としての海外伝道・宣教が活発に進展しているようには思われないからです。教団の伝道・宣教の状況について評価するとき、いきなり海外での伝道・宣教的状況を結び付けるというやり方には唐突さや疑問を感じられるかもしれません。しかし、私には国内伝道・宣教と海外伝道・宣教との間には密接な関係があるように思われます。例えば、教団の海外伝道・宣教の現状を考えていただきたいのです。世界宣教委員会が毎年発行する『共に仕えるために』の2015年版によれば、世界宣教のために教団が海外に派遣中の宣教者の数は、統計上伏せられた方を含めても二十人に至りません。十数人です。この数字をどうみたら良いでしょうか。驚くべきことに、その派遣先のほとんどは、教団が積極的に教団の事業として開拓展開し、その経済面を全面的に援助しているというわけではないのです。現地からの宣教師派遣要請があって、経済的にも箱物においても準備が整えられており、教団の負担なしに派遣できることが保証・確認された場合に送り出すという状況です。

宣教者の数が多いとか少ないとか、派遣の形が良いとか悪いとかといった主観的な評価は別にしても、私の派遣された韓国の教会の派遣数と比較してみるとき、その余りの違いには愕然とさせられます。韓国の場合、統計上公にされているだけで170カ国に26,677名(韓国世界宣教協議会発表、2014年12月末現在)が派遣されており、中東や中国などの表には出せない宣教師たちまで含めれば、それをはるかに上回る宣教師たちが世界中に派遣されているという状況です。国内伝道・宣教を積極的に進めようとする教会・教団は、海外伝道・宣教にも熱心なのです。反対に、海外伝道・宣教に消極的な教会・教団は、国内伝道・宣教も活発でないようです。日本基督教団がその典型のように見えます。国内外の伝道・宣教は互いに影響しあう関係にあるばかりか、より積極的には相乗的関係にあると考えます。その深層には、伝道・宣教そのものに対する教会のスピリットが関わっていることにちがいありません。線引きされた境界を越えて行こうとするスピリットです。

日本はまだキリスト者の人口比が1パーセントにも満たないミッションランドです。それゆえ、まずは海外よりも日本国内の伝道・宣教に専心するべきだという主張があることは存じています。それはある意味でもっともでしょう。私自身、宣教支援を訴える場で、面と向かってそう言われたこともあります。「国内伝道・宣教が先だ」と。しかし、そのような考え方をもって福音伝播の関心を国内にのみ、あるいは教会の置かれた地域にのみ向けていれば良いということではないはずです。すでに初代教会の時代から、教会は先のような論理によって教会周囲の地域伝道や国内宣教にのみ専心してきたというわけではなかったのですから。私たちは知っています。エルサレムの教会は迫害が契機となったとはいえ、そこから散らされていった人々によって福音が外へ外へと伝播されることになりました。アンティオケ教会はより積極的に、パウロやバルナバのような人物を遠く海外へと伝道・宣教のために派遣したのでした。福音は国を越えて海外へと向かい、民族や宗教をも越えて異邦人へと向かって行ったのです。実に、教会は初めから遠く海外へ向けて伝道・宣教の業を進めていたことを忘れてはなりません。

教団の伝道・宣教的状況は、海外からは「よく見えてこない」というところがあります。国内での伝道・宣教の進展状況であるとか、伝道・宣教ということで具体的に何がなされているのか、よく見えて来ないのです。教団の世界宣教的状況は、一層輪をかけて見えてきません。その理由として、海外の諸教団との交流や連携が活発でないということが挙げられましょう。教団の世界宣教委員会は、その余りにも少ない担当者を通して余りにも大きな仕事を担っておられることを思います。たったの数人で全世界の諸教団や諸教会との外交を一手に引き受けておられます。幹事や事務の方々はどんなに大変なことでしょうか。世界宣教委員会は教団の対外的窓口であり顔です。その重要性を認識していただきたく思います。その負担を分散して質を高めるためにも、同委員会の充実は緊急の課題です。しかし、それ以前の問題として、教団の伝道・宣教的状況がよく見えてこない理由は、おそらくもっと本質的なところにあるはずです。私たちが、口で叫んでいるほどには伝道・宣教に具体的に専念しているわけではないということです。もちろん、個教会レベルでは、日夜地道に伝道・宣教に励んでおられる皆さまでいらっしゃることでしょう。しかし、問題は「何をもって伝道・宣教している」としているか、ということにあることを思います。

海外にいては何も見えてこないというわけではなく、よく見えてくることもあります。日本基督教団は「宣教」ということばから「伝道」ということばを強調する教団へと転換したということです。言い換えますと、教団は「伝道か、宣教か」といったことで立場を分かち、内輪でいさかいを起こしてきたし、今も同様であるように見えるということです。その背景には、教団の置かれた歴史的状況があることを思います。以前の教団では、「大切なのは伝道ではなく、宣教である」といって「伝道」という言葉やその営みを避ける、あるいはそれを排除するような考え方が教団の中枢にあって多数をしめていたことを思います。「伝道」は自分達の教会維持や教勢拡大の営みにすぎぬ教会的エゴだという考え方から「宣教」を主張する方々が、かつて教団をリードしていたということです。それ故に、その後、その対極にあった方々が選挙で勝利するや、以前の考え方の偏向を変えるために、あえて「伝道する教団」を主張せざるをえなかったということがあったことでしょう。ですから、伝道を声高に叫ばれる先生方も、決して宣教を否定しておられるわけではないはずであると、私は信じております。むしろ、それまでの伝道という言葉と行為に対する見方や考え方を払拭し、教会の本来の使命をもう一度見直す必要から、あえて「伝道」と言うことばをクローズアップさせて標榜してこられたことにちがいありません。しかし、教団を外からみますと振子は極から極へと振れてしまったように見えるのです。伝道を強調するようになってから、教団の伝道は著しく進展してきたのでしょうか。見えて来ません。むしろ、伝道しようと訴える教団は教会求心的であって、まるで世に向かう遠心的な志向性が非常に弱いか、無くなってしまっているかのようにさえ見えます。それで良いはずはありません。教団が危機的に見える所以です。

世界中のキリスト教諸教団が伝道・宣教のために熱く祈り、世界中に宣教者を具体的に派遣し、置かれた地域においても伝道・宣教のために奔走してきている間、私たち日本基督教団はいったい何をしてきたのかを考えないではいられません。内輪もめでしょうか。喧嘩でしょうか。覇権争いでしょうか。当事者の先生方は、どちらも真剣でいらしたことでしょう。それこそ「主のため、世のため」にその闘いを闘ってこられたに違いありません。しかし、内輪でそういうことをしていること自体、世における伝道・宣教の妨げとなっているということを私たちは自覚してきたかどうか、深く自問したく思います。イエス・キリストのことばが胸の中で重く痛く響きます。「隣人を自分のように愛しなさい」。「敵を愛しなさい」。

2.福音理解の相違からくる両陣営の問題

「伝道か、宣教か」という問題におけるいさかいの原因の一つは、福音理解の相違にあることを思います。乱暴な物言いとなることを心苦しく思いつつ申しますが、一般に「伝道」を強調するグループではイエス・キリストの福音が奉じられ、人間の内的諸問題が注目され、十字架と復活、キリスト・イエスの死による贖罪とそれによる神との和解、個人の救い、魂の救いなどが強調される傾向があるように思われます。これと並行して超越的神との垂直次元の関係が重視され、したがって人間の罪とその赦罪が福音の核心に置かれて、教会内的方向性をもった営みへと集中して行く傾向がみられます。いわゆる「教会派」と呼ばれる方々の傾向です。それに対して、「宣教」を強調するグループでは神の国の福音が奉じられ、現実世界において人間を苦しめる具体的構造的諸問題が注目され、貧困や抑圧や差別などからの解放と、そのための社会の救済、したがって社会構造の変革やそのための行動などが強調される傾向があるように思われます。これと並行して内在的神との水平次元の関係が重視され、したがって赦罪や和解の福音というよりは、この世と社会あるいは実生活の改善が福音の核心に置かれ、教会外的方向性をもった営みへと集中して行く傾向がみられます。いわゆる「社会派」と呼ばれる方々の傾向です。こうして、いわゆる「教会派」には社会派的観点や姿勢が希薄であり、いわゆる「社会派」には教会派的観点や姿勢が希薄であるということになるようです。外から見る時、日本基督教団においては、こうした福音理解の相違が、そのまま「教会派」と「社会派」による教団政治内での覇権争いをしているように映ってしまうわけです。この点においても、教団の振子は極から極へと振れたように見えます。「社会派」から「教会派」へと振れたのです。この転換には歴史的に重要な意味があったことを思います。しかし、いつまでもこのままで良いわけはありません。依然として、伝道・宣教が進展していません。両陣営とも、一方の極に留まっていてはならないはずです。

3.「あれか、これか」ではなく、「あれも、これも」

何をもって「喜ばしい知らせ」とみなすか、すなわち福音とは何かという問題が事柄の核心にあります。いわゆる福音の内容に関する問題です。福音とは何か。その答は自明ではありません。そこで、あえて問うてみたく思います。とどのつまり、福音とは何なのでしょうか。イエス・キリストの福音でしょうか、神の国の福音でしょうか。使徒パウロの語った福音でしょうか、主イエスの語られた福音でしょうか。過去の事柄でしょうか、将来の事柄でしょうか。赦罪でしょうか、癒しでしょうか。御子の贖罪死による神との和解でしょうか、あらゆる拘束状況からの解放でしょうか。十字架と復活でしょうか、貧困や抑圧や差別などが世から無くなることでしょうか。個人の救いでしょうか、社会の救済でしょうか。魂の救いでしょうか、社会変革でしょうか。新約の書簡の内容でしょうか、福音書の内容でしょうか。信仰のキリストの教えでしょうか、史的イエスの生でしょうか。あれでしょうか、これでしょうか。

新約聖書には書簡もありますし、福音書もあります。パウロの教えと生も記録されていますし、キリスト・イエスの語られたとされることばと生も記録されています。どちらか一方ではありません。両方あるのです。もちろん、主イエスの言動が記録された福音書の中には、神の国に関するものばかりではなく、中風の人に対する人の場合がそうであったように、まずは罪の赦し、それから病の癒しが続くという優先順位がつけられた物語もあるという現実をわきまえておくことは大切です。とはいえ、福音書にはまた社会の中にあって病や汚れた霊につかれた人を癒し、罪人とされ抑圧されていた人々と共に飲み食いされたキリスト・イエスの言行がいろいろ記録されていることを心に留めるなら、御子イエスにおいて、すでに「あれも、これも」であったことが十分見て取れるのではないでしょうか。

ここで、誤解されないことを願いつつ次のように申してみます。聖書を正典とする立場に立つ限り、福音理解における観点と姿勢は「あれか、これか」では立ち行きません。使徒の教えは重要です。しかし御子イエスの教えも一層重要です。また御子イエスの行為や生のあり方そのものも劣らず重要、まさに「あれも、これも」です。同様に、福音を伝える形、伝道・宣教についても「あれか、これか」では立ち行きません。伝道も重要ですし、宣教も重要です。ことばと理論は重要ですが、それにまさるとも劣らず行動・実践も重要なのです。「あれも、これも」です。イエス・キリストの言行、使徒の言行、それらのすべてが大切なのです。福音の内容理解においても福音を伝える形においても、今まさに統全的観点と姿勢が必要である、ということを申し上げたく思います。

4.伝道即宣教、宣教即伝道

「あれも、これも」志向しようとする態度は、節操なきものとして非難されるかもしれません。まるで玉虫色であるとかコウモリのようであるとかと、両陣営の双方から批判されることになるかもしれません。しかし、そのどちらか一方に偏っていて良いわけではないということは、聖書を正典と告白する人であれば誰でも同意していただけることと信じます。だからこそ、冒頭で申したように、こう申したいのです。「伝道即宣教、宣教即伝道」と。

「宣教なき伝道は空虚であり、伝道なき宣教は盲目である」。カント風に表現してみました。あるいは「宣教なき伝道は口先だけの欺瞞であり、伝道に至らぬ宣教は、洗礼に至らぬ宣教は主イエスの大宣教命令に従わぬ不信仰なヒューマニズムである」とも表現してみたく思います。要するに、宣教なき伝道はなく、伝道とならぬ宣教もないということが言いたいのです。このことを私は「伝道即宣教、宣教即伝道」と表現してみたわけです。伝道と宣教、これら両者相俟って伝道は真に伝道となり、宣教も真に宣教となるのであって、それでこそ福音伝播は内容においても形式においても健全となるものと信じます。

5.愛なくして伝道なし、宣教もなし

伝道・宣教に不可欠なのは愛です。個人に対しても世に対しても、イエス・キリストにおいて現わされた神の愛を心に抱いて福音を伝えることが何よりも大切です。伝道・宣教を実践する場では、その内容が福音である限り、裁きよりは赦しが現実のものとされることでしょう。正義は裁き、愛は赦します。もちろん、不義不正に対してはいつでも体を張って対抗することが必要でありましょう。しかし、その場合でもキリストは暴力を用いられず、むしろ十字架の上でさえ死に至るまで赦しに徹する愛の生をまっとうされたことを心に留めたく思います。

「愛なくして伝道なし。伝道に至らぬ宣教もなし」。また「愛なくして宣教なし。宣教に至らぬ伝道もなし」。冒頭で申したとおりです。だからこそ、問題の核心に迫ろうとして、今次のように問わざるを得なくなります。果たして、伝道にせよ宣教にせよ、これを叫んできた私たちにこの「愛」がどれほどあったことでしょうか。悲しいことに、はなはだ疑わしく思われます。その意味で、私たちは真摯に伝道・宣教をしてきたといえるでしょうか。愛をもって伝道・宣教に専心してきたと言えるでしょうか。このことこそ、今日、自戒をこめて、私たち自身に向けて問い直してみたいことです。他者批判ばかりが聞こえてきます。他者批判の前に、まずなすべきは自己批判であり、悔い改めであるはずです。他者批判をしている限り、自分は正しい位置にあります。自己正当化なくして他者批判は強くできないものです。悔い改めなき他者批判に愛はあるでしょうか。それは利己的自己愛のもう一つの顔ではないでしょうか。しかも、この愛なき他者批判に明け暮れてきた私たちであることを思います。そこで提言です。今何にもまして私たちがまずなすべきことは、悔い改めと祈りではないでしょうか。これなくしては、新しいことは始まらないと思います。しかし、これが真にできれば、私たちの間で新しいことが始まるに違いありません。私たちが新しく変わるということなのですから。

ただ口先だけで和解の福音を伝えれば伝道となるわけではありません。信仰に基づく愛の心とことばと行いが必要です。同様に、ただ行動をもって解放の福音を現実化できれば宣教となるわけでもないはずです。信仰に基づく愛の心とことばと行いが必要です。愛なき伝道とは形容矛盾、愛なき宣教もまた形容矛盾です。だからこそ、こう申すのです。「愛なくして伝道なし、愛なくして宣教もなし」。

伝道・宣教においても、最も大切なものは愛です。愛は愛でも、利己的自己愛ではなく、求められるのは利他的他者愛です。その愛は、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、(日々)自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたお方を信じ、従うこと無くしては不可能でしょう。主イエスは「自分を捨て」と言われました。それは自我を捨てることです。利己的自己愛を捨てることです。究極の言葉です。ほとんど不可能と思われます。その限り、伝道・宣教に従事するということは、人間的には不可能の可能性にかけることです。愛なくしては不可能でしょう。しかし、私たちはこの伝道・宣教をするよう召されました。だからこそ、愛なる神に依り頼み、特に聖霊に助けを求めつつ、この不可能の可能性に参与させていただけるよう祈るのです。主イエスに従う者とならせてください、伝道させてください、宣教させてください、愛する者とならせてください、と。

6.国内だけでなく国外にも視点を拡大し、神の国の視点から伝道・宣教を実践する

日本基督教団にとっては、日本国内が伝道・宣教の対象であるということは自明のことでありましょう。しかし、国内だけに目を留めておいて良いわけではないはずです。キリスト・イエスが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言われたことからすれば、伝道・宣教の場ではいつでも「神の国」が意識され、「神の国」の到来と拡大と完成のために意が尽くされるように努める必要があるはずです。「神の国」が「神の支配・統治」を意味するものであるならば、全世界が「神の支配・統治」のもとに置かれるものとなるよう、努めなければなりません。伝道・宣教という業には、「神の国」の視点がどうしても必要です。「神の支配・統治」の範囲を国内だけに留めておいてはなりません。それを国内に留めようとする姿勢は、ナショナリズムの歪んだ形の一つです。国外にも視点を拡大することが求められます。ナショナリズムは「神の国」の支障です。それは集団的利己主義を惹起させるものです。いつでも人に国益を追求させることになります。一旦緩急あれば「神の国」の民同士であっても戦争を起こさしめる要因となります。ですから、ナショナリズムに拘泥しながら「神の国」の完成を願うことは偽善です。ナショナリズムから解き放たれるためにも、私たちはいつでもどこでもどんな場面でも「神の国」の視点をもって、伝道・宣教を実践することが大切です。

7.伝道・宣教の対象は全被造物

主イエスはおっしゃいました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と。マルコによれば、キリストのおっしゃった福音宣教の対象は人だけではなく、「すべての造られたもの」です。全被造物です。そうだとすれば、福音を「宣べ伝える」という行為は、人間だけを対象とするものではなくて、人間の言語が通じない動植物や有機物・無機物を含む被造世界の全体を対象とする行為であることになります。「宣べ伝える」ということは、単に人間が人間に対して言語で福音を伝えるということに留まらず、言語以外の何かをもってしても人間を含む他の被造物全てに至るまで福音が福音として伝わるようにすることでありましょう。私たちはこのことをどれほど重視し、深刻に受け止め、実践してきたかを思います。たとえば、病んでいる動植物はもちろんのこと、破壊されつつある環境や痛みの中でうめいている生態系に思いを向け、これらに福音を伝える行為を実践するということに、私たちはどれほど意を尽くしてきたでしょうか。環境保全や復興回復のために具体的に行動するということも福音宣教であり、福音伝道の業のひとつとされることでしょう。福音伝道・宣教の対象は全被造物です。その対象は人間だけではありません。キリスト・イエスを信じ、従う者である限り、私たちは全被造物に福音を宣べ伝えることとなる行為のためにも意を用い、そうした行為により積極的に、より具体的に参与していくことが必要でありましょう。

8.聖霊に満たされて生きること、聖霊を信じること

論・論・論。伝道にせよ宣教にせよ他の何にせよ、私たちはあまりにも論に偏ってきたということはないかと反省させられます。知識が増え、望ましい宣教理論が作られるということは貴く、大切なことであるにちがいありません。しかし、作られた宣教理論に沿って宣教・伝道が実践されていくという形は、聖書に描かれた教会やキリスト者たちの姿とはどこか根本的に合わないものがあるように思われます。まず理論が作られて、それを学んだ後に実践を始めるというのは一般社会においても志向される形です。コンピューターやロボットのような機械でさえ同様に学習して動いていくものです。しかし、聖書に記録された人々の姿から見えてくる伝道・宣教の形は、聖霊に満たされた者による姿やその行動様式に表れています。それは理論や理性を超えて動き出す熱き者たちの姿です。聖霊に満たされると、理性を超えた仕方で体が動き出してしまうような人々の姿が使徒言行録には特徴的であることを思います。聖霊に満たされると舌が動き出してしまう人々。語らないではいられなくなる人々。心と思いにおいては行きたくない所でも、神のことばに従って、そこに赴いてしまう人々。そのようにして喜ばしい知らせを伝え、世に仕えつつ生きた人々の物語で一杯です。ペトロがそうでしたし、パウロもそうでした。ステファノもフィリポもアナニアもそうでした。その他、どれほど多くのキリスト者たちが理論や理性を越えたような仕方で福音を伝え、福音をもって世に仕え、生きたことでしょうか。皆、世が認めるような意味では理性的な生き方をしたわけではありませんでした。論も大切でしょうが、論は論でしかありません。これからはむしろ論を立てるだけでなく、それを越え行くような形で実践に生きて行くことが大切です。こういった主張も一つの論となってしまわないよう、行動を起こしていかなければなりません。

伝道も宣教も人間的可能性を超えた聖霊の御業です。それは人間としては不可能の可能性にかける業です。信仰が問われます。「信じているのか」と。聖霊が信じさせてくださいます。

おわりに

イエス・キリストにおいて現わされた神の愛を心に抱いて福音を伝え、語った事柄を自ら生きることが重要です。そのような生き方は、愚かな生き方となることでしょう。キリストにあって愚かな人は、自分を捨て、キリスト・イエスに従おうとするでしょう。そのような人は、愛をもって神と人と全被造物に仕えようとするでしょう。世に対して愚直に仕える愚かな信仰者の姿とその生き方そのものが伝道・宣教となります。伝道は生の目的というよりは生の結果です。キリスト者の生において伝道・宣教が目的化するとそれ自体堕落し、世からも厭われることになるでしょう。なぜなら、その周囲には利己的自己愛の香りが漂い始めるからです。むしろ誰かから「あなたは何でそんな愚かな生き方をするのですか」と聞かれるようになれれば、自然と福音を語り伝えることになることでしょう。

いったい私たちは、どのように伝道・宣教をしていったら良いでしょうか。信仰によって愚かに生きるのです。しかし、そう問い考える前に、まず共々に悔い改めたく思います。そして共々に祈りたく思います。そこで提案ですが、教団を挙げて、皆で「悔い改めと祈りの大運動」を起こすというのはいかがでしょうか。神を愛することができるように、世を愛することができるように、共々に集まって祈るのです。愛をもって伝道・宣教する者となれるよう一緒に祈って行くのです。そのために聖霊に満たされることを願い求め続けるのです。教会の内で日々祈りと御言葉を通して神様に仕えるということも、教会の外で利他的他者愛をもって世に仕え、愚直に生きるということも、すなわち伝道・宣教を真剣に始めるということも、この悔い改めと祈りなくしては真に始まることはないでしょう。

伝道・宣教は、私たちが聖霊なる神を神として本当に信じているかどうかにかかっています。そして、聖霊なる神に満たされることを私たちが願うかどうかにかかっています。果たして、私たちは父なる神、子なる神を信じると同様に、聖霊なる神を信じてきたでしょうか、信じているでしょうか。実際、私たちは聖霊なる神様をどれだけ真摯に信仰の対象としてきたことでしょうか。教団において、宣教も伝道も進展していないということがあるなら、その原因は根本的に聖霊信仰の不足あるいは欠如がその根幹にあるのではないでしょうか。共々に悔い改めたく思います。共々に祈る者となりたく思います。

聖霊なる神を本気で信じようではありませんか。聖霊を求め、聖霊に満たされることを願おうではありませんか。聖霊に満たされるとは愛に満たされることです。ですから、聖霊に満たされた者となるとき、私たちは意に反してでも舌や体が動き出し、愛をもって伝道・宣教へと赴かざるを得なくなることでしょう。教会の中に留まってはいられなくなるはずです。教会の外に留まってもいられなくなるはずです。聖霊は、教会の中でも外でも、自由に働かれるのですから。このことを本気で信じるのです。

日本基督教団の伝道・宣教の課題は、多くないことを思います。私たちが悔い改めて、愚直に祈ることです。そして、信仰者として愛に生きることです。愛は愛でも、利己的自己愛ではなく、利他的他者愛をもって生きることです。知識ばかり増やして頭でっかちになることはもうやめて、愚かになることです。そして体を張って世に仕え、他者のために生きようと努めるのです。言葉よりは行動に長ける者となるのです。こうしたことは聖霊の助けなしには不可能でありましょう。しかし、聖霊の助けがあれば可能となると信じます。だから聖霊を信じ求めるのです。私たちが聖霊を信じ、愛をもって福音を生きるとき、結果としてそれがイエス・キリストを証することとなるのであり、伝道・宣教となるはずです。贖罪による和解の福音も受け入れてもらえることになるでしょう。

「愛なくして伝道なし。伝道に至らぬ宣教もなし」。また「愛なくして宣教なし。宣教に至らぬ伝道もなし」。そして「伝道即宣教、宣教即伝道」。今必要なのは悔い改め。祈り。聖霊信仰。ここまでとさせていただきます。ご傾聴いただき、ありがとうございました。
(なお、具体的な課題と提言を以下に記させていただきます。ご参考までに。)

課題と提言
・聖霊信仰の回復と更新と深化と活性化
・全教団的な「悔い改めと祈り」の大祈祷運動の推進
・「愛の業に励みつつ、主の再び来たりたもうを待ち望む」教会の実現
・個人を生かし、教会を生かし、社会を生かし、全被造世界を生かす教会と神学の構築
・個人の魂についての責任と社会的・歴史的責任の双方を担い得る教会と神学の形成
・神学教育における伝道学・宣教学の充実
・伝道・宣教に積極的な教団となるための世界宣教委員会の大幅強化

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